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札幌本道の建設

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 ところが四年、お雇外国人たちは札幌を北海道の首府として建設するならば、函館札幌間の車道の確保が先決であることを建言した(ケプロン報文 新撰北海道史第六巻)。そのため開拓使は、函館札幌間に馬車道を建設することにした。それが、函館から森、室蘭から札幌までの札幌本道である。その道路は、お雇外国人の建言をとりいれて、表面を砂利で舗装するマクアダムス式舗装道路を予定した。この建築には鹿児島の串木野や東京などから人夫職人を多数雇い入れて行われた(新北海道史第三巻)。工事は五年三月から開始され、六年七月には太政官へ竣工の報告をした。これにより函館札幌間の連絡路は、一部内浦湾の森室蘭間の水運を除き、陸路で確保された。この道路の完成は、それ以前の函館小樽間、さらに石狩または銭函までの水運に比べ、安全で恒常的な運送を可能にした。
 この工事で一つの事件が起こった。それは、工事の遅れの処置に関し函館の本道建築掛と札幌本庁とが人夫の処理について、齟齬をきたしたことである。札幌本庁からは開拓使の決定事項として、鹿児島から雇ってきた串木野人夫一一〇〇人を越冬させることを、銭函へ出張してきている函館建築出納掛山田愷へ指令してきた。そのため山田は、その越冬費用を函館の自分の上司に要求した。それに加えて山田は、本来帰郷させることになっていたのに突然予定を変更して越冬させるのはおかしい、と函館へ申し送った。しかし函館では、それは札幌本庁の決定だから札幌本庁から費用を出してもらうように指令した。この事件は、札幌会議で黒田次官が滞札中であり、最終的には黒田の判断で帰郷させることで決着した(開拓使公文録 道文五七二五)。