募移農民の扶助期限満了後、また営業資本貸付の廃止以来、経営資本の欠乏に苦しむものが多くなった。そのため十二年一月、開拓使は市民の営業資金の窮乏者への貸金として、水原寅蔵に年八分・六カ月完納の契約で五〇〇〇円を貸付け、営業や家屋建築費などの金融を行わせている。また三月、開拓使は防寒、防火の家屋・土蔵の建築資金を貸付けるために五万円を用意した。石造・土蔵は一戸一二坪一八〇〇円、木造はロシア式丸太組一六坪五合を一三五円として一カ年五分の利子、五カ年賦完納をもって市民に貸付けることにした。こうして札幌の再開発をはかっている。この時今井藤七は水原から呉服店舗新築資金を借り、さらに開拓使からも一八〇〇円を借りて、南一条西一丁目に袖倉(店舗に続く倉)と新たに店舗一棟を新築している。また南一条通の何人かの商人がこれら資金を借り、家屋や土蔵を新築している。だがその貸付金の返済について、後日返済延期を申し出たものが多々見えている。
詳細は不明であるが『札幌区史』には、十年より十三年までの間、第一小学校に一〇〇〇円ずつ、十四、五年中は札幌区役所に一万円ずつ貸与し、市中商賈の資本に分貸させていると記述されている。