ビューア該当ページ

平岸村の副戸長問題

301 ~ 302 / 1047ページ
 平岸村副戸長が設置されず、副総代が三人という変則な形態をとっていた。高橋源吾大平寛造木村長之丈の三人の任命は九月十九日に行われたが、すぐ翌二十日に先の三人より副戸長ないしは総代の設置願が申請されている(開拓使公文録 道文六〇一三)。平岸村は当時すでに六五戸を数え、白石、札幌村に次ぐ「大村」であった(明治七年七月分各村戸口増減御届 道文九三二)。なぜ平岸村には副戸長がおかれなかったのであろうか。
 これには副戸長の人選が関係していたようである。七年十一月十七日の平岸村副戸長設置の伺によると、「一村総括之者無之候テハ不取締之儀屢次申立有之候得共、可然人物無之其儘被差置候処、元副戸長行方丹治義嚮日帰村仕候間、同人へ再勤御申付相成可然哉」と、「可然人物」が問題とされ行方丹治が任命されている。彼は五年十一月に副戸長に就任以来その職にあったが、七年六月二日に辞任し、その後郷里(宮城県)に一時帰国していたようである。副戸長の任命にあたる九月にはすでに彼は帰国しており、「可然人物」とされた彼が不在のため、平岸村は当初から副戸長が欠員とされていた。この折平岸村からは、「副総代二名ノミニテハ難行届趣」と申立て、副総代を一人増員してもらったのである(開拓使公文録 道文六〇一三)。ここでいう「可然」とは開拓使にとっての「可然」であり、副戸長の人選にあたって、開拓使では細心の注意をはらっていたことがうかがわれる。
 行方丹治副戸長任命後、増員分の副総代が減員となり、翌八年一月十日に高橋源吾が辞職した。しかし「可然人物」とされた行方丹治は間もなく辞任し、二月二十七日に木村長之丈が任命された。