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平時の練兵

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 屯田兵は兵役に服する義務を負い、制度発足時は子孫に相伝する永世兵で、一種の世襲役であった。近代国家体制に沿う兵制を整えようとした政府は、桐野利秋らの士族軍隊論を退け、民兵すなわち士族にこだわらず平民を組織する徴兵令を明治六年(一八七三)から実施し、満二〇歳の男子を三年間現役兵に服させることにした。こうして成立した鎮台兵と屯田兵をくらべると、士族中心、しかも永世世襲制という点で大きな違いがあった。この矛盾を解決するため、募兵にあたって士族の不足数は平民によることとし、さらに十二年には服役年限を北海道に鎮台が設置されるまで、その前年兵員が死亡して相続人がいなければ死亡年をもって免役とするよう改めたが、根本的な解決には至らなかった。
 二十三年八月屯田兵条例の改正ではじめて現役三年となり、その後数次の改正を経るが、琴似、山鼻両兵村の現役期間は二十四年三月までの長期にわたった。あと日清戦争除隊日となる二十八年六月までが予備役、三十七年三月まで後備役、さらに補充役となって同年九月屯田兵条例の廃止をむかえ、ここにいたって完全に兵役義務は消滅した。この間予備役満期までが兵制管轄下にあったから、八年入地者で兵役をまっとうした場合、その服役期間は実に二〇年一カ月に及んだのである。
 屯田兵として入地すると半年間ほど徹底した練兵教練がなされた。琴似兵村の場合は入地時に銃器がそろわず、当初は伍長だけを対象になされるが漸次全兵員に及び、子弟や養子が兵役を継続する場合も同様で、新規入隊者を生兵と呼んだ。その内容は①銃を持たない時の構え方②銃の持ち方③四段、急装の構え方④射兵の位置(立、膝、伏)⑤照準と発射へと段階を進める。これに密集運動、小隊運動が加わり、気を抜くと危険をともなう厳しい訓練が各練兵場で行われ、実弾射撃は月三、四回射的場でなされた。なお、十三年から練兵方法を新式に改正していく。
 生兵期間を過ぎると練兵は主として農事の合間、特に十一月から四月にかけての冬期に行われ、「ツマゴ」での雪中行進、指出し手袋での操銃は寒気のさなか大変な苦業であったという。たとえば屯田兵の『第五期報告』(十二年七月~十三年六月)は次のように述べている。
      演兵
 十二年十一月ヨリ農隙ヲ以テ、琴似山鼻両所ニ於テ各中隊操練ヲ為スコト二回、十三年一月二分隊鵡川地方ニ於テ鹿猟取締ヲ兼、実地演習ヲ為シ、又大隊及中隊射的演習ヲ為スコト春秋各一回、分隊射的演習ノ如キハ毎月凡一回。

このように中隊全員の練兵をはじめ、月一回の大隊調練、さらに特別の行軍、分列式、宿泊をともなう大演習等があり、平時といえども厳しい兵務に従事したのである。