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食用作物

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 琴似入地の初年、共同開墾した土地から各家五〇坪が自家用農園として給与された。そこに最初にまかれた種は蕎麦と大根で、秋にかなりの収穫を得た。開墾地の拡大とともに順調な生育をみせ栽培面積を広げていったのは、身近にあって日常食生活に必要な在来の食用作物であったと言わざるを得ない。西南戦争の翌年の状況を見ると、三大作物は麦、豆、馬鈴薯である。麦は大麦が中心で小麦は少量、豆は大豆がほとんどである。このほか蕎麦が相変わらず多く、粟の産額も無視できないが稗は少ない。
 その一〇年後(明治二十一年)は、作付面積収入金額ともにやはり麦、豆、馬鈴薯が主力で、麦は大麦とともに小麦が増えて裸麦が加わり、豆は小豆がトップで大豆とほぼ同格になり扁豆豌豆がのびる。蕎麦はすたれず一定の産額を保ち、粟稗もみられるが比重は低下していった。このほか黍、玉蜀黍、甜菜、菜種、蘿蔔、南瓜、西瓜、甘藍、茄子、胡瓜、牛蒡、葱等多様なものが作付され、試行錯誤をくり返した。だれもがあこがれた稲作も実験され、琴似兵村では発寒から上手稲にかけて水田を分隊の共同作業でつくり収穫を得たが、水利に恵まれなかったため長続きしなかった。現役期を終える時点で果樹類を除く作付面積をみると豆二七・二パーセント(内大豆小豆ほぼ同じ)、麦二二・二パーセントを占め、蕎麦、黍、亜麻が各一六~一七パーセント前後であった。
 両兵村で実収益をもたらした作物として果樹類をあげなければならない。琴似では九年から、山鼻では十年から開拓使配布の梨、りんご、李、桜桃等の苗木が植えられ、十四年頃から結実収穫できるようになる。あまり病虫害にかからず順調な生育をみせ、樹木数は各兵村とも六〇〇〇本を越え、豊富な種類と量を誇った。収穫物は広く販路を得て好評を博し、兵村美果の名を高め現金収入源となった。
 屯田兵の入地とともに希望者へ荒馬の貸付がなされたのは、開墾に利用するねらいがあったと思われる。その後も営農の畜力として官馬の貸付と払下げがなされたが、開墾や農作業にはあまり役立たなかったようで、もっぱら乗用、運搬用に使役された。ほぼ二戸に一頭は飼育していたので、馬足や車に耐える道路修繕が必要となり、また駿馬を育て競馬会を開く楽しみが生まれた。牛は十一年に南部からやはり農耕用に移入されたが、飼養に手間がかかり不評で永続しなかった。牛馬ともに本格的な畜産経営とならなかったが、鶏の飼育と卵の生産はわずかながら収益をもたらした。
 両兵村の授産事業は順調に発展定着したものもあるが、総体的には「遺憾ながら十分の成績を挙げることが出来なかった」(琴似兵村誌)という。その原因は特用作物の奨励に力を入れるあまり、食用作物の栽培が後手にまわったこと、日本人の生活になじんだ在来品種よりも欧米輸入ものを重視しながら、その栽培技術を十分指導できなかったこと、兵村全体を北海道開拓の実験農場とみなし、あまりに試行錯誤が多すぎて「終始試験材料の奇観を呈した」(同前)こと等があげられよう。資本主義経済が未成熟な段階にあって流通機構はまだ整備されておらず、その中で兵村の授産事業を定着させるのは多くの困難をともなったのである。