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藻岩学校等の設立

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 市中の発展により、第一小学校では生徒を収容しきれず、十一年には百数十人もの就学不能者が生じた。このため開拓使区長等に説諭し、「札縨全道ノ首府タルヘキ枢要ノ地ニ位スルヲ以テ、宜シク最良ノ教育ヲ設シ人民ノ知識を開達シ、之レヲ拡充シテ以テ東西各郡ニ及ホサザル可ンヤ」(大村耕太郎資料参考書 札幌市文化課)と教育普及における札幌の地位を規定し、官費を仰がずに「一ノ分校」を設置することを指示した。これにより市中一般および開拓使学務局員の寄付を募り、校地を檜山通(南三条西七丁目)として建築にかかり、十三年十月に一〇六坪の校舎が落成し藻岩学校と命名された。校舎は黒田開拓長官の「人間生活ヲ得ルニ付テノ凡テノ模範タルガ故ニ、宜シク堅牢素朴実ヲ貴バザル可ラズ。家屋改良ノ模型モ亦学校ニ由ラズバアラザルナリ」(開拓使学務局沿革 道図)と、一般建築物改良の規範とする意図も含めてロシア式丸太組の構造とし、のち採暖のためペチカを設置した。
 しかし、それでもなお校舎は狭隘となり、特に南部にその傾向が顕著なため、十五年六月に南一条西二丁目の既設の豊振夜学校の一階を使用して、藻岩学校第一分校として開校した。これは十七年十二月に廃校となったが、同月中に南五条東二丁目に既設の建物を増改築し、翌十八年二月に豊水小学校として開校した。

写真-2 豊水学校平面図(札幌県治類典 道文3989)

 このほか、私立学校もいくつか設立された。まず公立第一小学校教員であった金三穂(こんみつほ)が、明治十一年に南一条西七丁目の自宅に私塾を開設した。翌十二年に生徒数八〇余人に増加したので、翌十三年に校舎を新築し、十月に淇澳学校(きいくがっこう)として開校した。しかし生徒数減少のため十七年に廃校となった。また十四年には開拓使を辞した大谷発が南二条西三丁目に敬業館を開設したが、これも十七年に廃止となった。このほか十四年に開校した豊振夜学校は、初等科を併置していたが、同校も十七年に休校、十八年に廃校となった。これら私立学校は、公立校では生徒を収容しきれないための補足的な面が強く、公教育が拡充したことにより、廃止されたといえよう。