明治九年十一月、開拓使本庁は「各郡教育所ノ内経費及教員ノ給料官費ニ属スル分全ク官立ノ教育所ト心得候向モ有之処、以来相廃シ」、取調の上補金を渡すので、「自今都テ公立ト可心得」(布令類聚)と達した。これによれば、教育所運営の経費はすべて官給であったことになる。同月市中の区戸長に対しても、特に開拓使定額金の満期も近く、このため官費によらず永続の方法を立てることを諭した。翌十年七月には「学校維持概則」が定められたが、この第一条中「戸区長ハ(中略)区内人民ヲ説キ協同尽力学資増加ノ法ヲ設ケ」(開拓使布令録)と、ここでもすみやかな教育財政の確立を指示している。そして廃使の近づいた十四年十二月に、藻岩・琴似・山鼻各学校の教員給料の官費支給を廃止することとした。
札幌県が設置されると、県は十五年三月に改めて琴似・山鼻両校へ教員給料官費支給を廃し、四月から当分の間、琴似学校は七二〇円、山鼻学校へ六七二円交付の旨を達したほか、同様藻岩学校へ三〇〇円など各校への補助金額を定めて達した。