明治二年九月一日、東久世長官の任地出発に先だち、神祇官において開拓三神(大国魂神、大那牟遅神、少彦名神)を鎮祭し、同月七日に開拓使に引き渡された。三神の決定については、事前に開拓使への意見聴取がなされている。霊代(御神体)は九月二十日、長官一行と共に東京出発、二十五日に函館に到着した。さらにここからは開拓判官島義勇らによってほぼ陸路銭函へ運ばれ、仮役所となった通行屋におかれた。ついで同年十二月三日、島は霊代を奉じて現在の中央区北二条西一丁目の官宅(集議所)に移った(北海道神宮史)。宮地選定に関してはそれ以前、十一月に早山清太郎を御宮地掛に任命し、早山は現在の社地を上申、島ほかの官員が実地調査の上、上申どおりに決定をみた。さらに同月中に同社神職も定めており、おそらく雪どけしだい神社建設に着工する心算であったと思われる。神官一〇人程度の、当時としてはかなりに大規模な神社となるはずであった。しかし島は三年二月に東京に召還されて本府建設も一頓挫を来たし、神社建設も宙に浮いたため、同年五月に小祠を作り、霊代をここへ奉遷し、一ノ宮、開拓神、勅祭社などと通称された。なおこの「一ノ宮」の位置であるが、多く記されているような北六条東一丁目ではなく、伊東正三『札幌区史史料』(宗教)にあるように、鉄道線路の南側、北五条東一丁目である(北海道神宮史)。この建築費は九五両であった。