この時期いち早く「布教」を開始したのは東本願寺(大谷派)であった。十年には函館別院輪番に東海岸一帯の開教調査を命じ、十二年に北海道布教事務主任をおき開教費を支出した。また真宗本願寺派も十八年に布教使を派遣して布教方法を上申させた。
設立については、十二年設立願の提出された東本願寺派の琴似説教場の場合は「本山費ヲ以テ建築等候義ニ付」(寺院教導書類 道文三一二五)とあって、おそらく備品等もこれによったと思われる。また中央寺の設立の願書中には、八年中教院となった以後、「両本山ヨリ若干ノ金員下附有之」(寺院書類綴込 道文五二一九)、その上さらに有志金を集めて「殿堂」を落成させたとある。
維持方法については、寺院・説教所の創立願に明記しなければならなかったため、かなりの事例がみられる。このうち若干を記すと、まず中央寺では、相続資本は三〇〇円および借家一棟で、一年間の寺納三二〇円、寺出三五〇円の差引不足金を相続資本の益金で補うとしている。
これは比較的檀家数の多い場合であるが、琴似村日登寺の場合は、これとはかなりに異なる。まず寺院維持の盟約書が檀家総代連名で出されるが、具体的方法は檀家一戸につき一カ月に白米五合、大豆五合、年に四八銭を寺納する計画で、合計金換算額は九〇円七二銭となる。これに対し寺の費用は七六円、差引で一四円七二銭の過金となるとされている。さらに苗穂村の大谷派説教場のように土地一町五反を寄付し、「作得バ都テ永続ノ法ニ供ス」(札幌県治類典 道文七四〇八)ことを、維持方法の一つとしているところもあった。