デニスの集会は、毎日曜日の朝に開かれ、デニスのコックと「下女」、通訳の小島守気という、いわばデニスの「身内」ともいうべき人びとが参加していた。まもなく東京から札幌学校の生徒として来札した伊藤一隆が加わった。しかしこの集会は永続きせず、翌年五月、女学校の閉校となりデニスが離札することによって途絶えた。
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写真-6 伊藤一隆 |
伊藤一隆は、開拓使仮学校在学中から宣教師について聖書を学んでいた。彼のキリスト教に対する関心はデニスの集会が途絶えた後も続き、七月、札幌を最初に訪れた宣教師であるCMSのW・デニングの説教を聞く機会を得た。デニングは、昼は聖書や『天路歴程』(ジョン・バニヤン著)などの書籍を売り、夜は街頭に立って説教をしたので、これが市内の評判になった。伊藤はこの評判に惹かれて毎日のようにデニングを訪れ、質問を重ねるようになった。しかし、これが学校当局に知られ、官費生の身分で、「国禁に等しい外教を信ずるのは不都合」であると譴責を受けた。伊藤は当局のこの制止に反発し、かえって洗礼を受ける決意を持った。
デニングは、当初伊藤の昂った気持を見抜き受洗に反対し、彼を伏籠川沿いの林に伴って共に祈った。それでもデニングには、彼が洗礼を受けるに足る信仰を持っているようには見えなかった。ただデニングとしても帰函の日が目前に迫っており、近く札幌に再来することも予定出来なかったし、今後伊藤が周囲の圧迫に抵抗出来る信仰を育てる必要をも考え、彼に洗礼を授ける決断をした。ところが、彼の受洗をデニングがその夜の街頭での説教で公表したため、またも学校当局に知られるところとなった。洗礼式の執行は、デニングの宿では宿屋の主人に許されず、路上では巡査に制止された。思い余ってデニングは、札幌に着任したばかりの札幌農学校教頭W・S・クラークに事情を話し、式場の提供と立会を依頼した。
デニングと伊藤を前にクラークは快諾を与え、自分はかねて農学校の生徒に渡すつもりで一函の聖書を携えて来た、その学生の一人に受洗者を見るのは意外なことで、自分がこの地に為そうとすることを、神が是認し示そうとしている、と述べた(伊藤一隆教史)。クラークは、W・ホイーラー、D・P・ペンハロー両教授共々立ち会うことになり、教師館となった本陣の客間(ホイーラーの応接室)でデニングの司式により、札幌で最初の洗礼式が執行された。九年八月二日のことであるといわれている(太田雄三 クラークの一年)。
写真-7 クラーク持参の聖書(札幌独立キリスト教会蔵)