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幌内鉄道の完成

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 札幌を中心とした交通網の整備で最大のものは、小樽から札幌を経て幌内までの幌内鉄道の建設である。鉄道の建設は、黒田次官の明治三年十月の建議では否定されていた。しかしその後の御雇い外国人からの建言などもあり、幌内炭鉱の開発は鉄道の設置を条件にして議論された。その結果最終的に十二年十二月クロフォードの意見をいれ、小樽幌内間の鉄道建設が決定した。十三年一月から着工された工事は、十一月末には小樽の手宮と札幌の間で試運転が始められた。これは東京横浜間、大津大阪間についで日本で三番目の鉄道であった。開拓使廃止と共に工部省の所管となり工事は進められ、十五年十一月幌内小樽間が開通した。機関車は、十三年中に購入した第一号を義経号、第二号を弁慶号、十四年以降購入した第三号に比羅夫、第四号に光圀、第五号にしづかというように伝説上などで北海道に関わりのある人物の名前がつけられた。
 停車場は、鉄道開業と共に開業した札幌駅に加え、現札幌市内には簡易停車場として軽川(現手稲、十四年十一月二十五日開業)、琴似(十五年四月二十一日開業)があり、三駅であった。その他白石西野幌に休泊所があった。はじめは一日一往復、十四年六月から手宮札幌間は夏期二往復、冬期一往復になった(北海道鉄道百年史 上)。
 鉄道としての経営状態は連年赤字続きであったが、道都札幌への物資補給にとっては安定した輸送路が初めて完成したことになり、その意義は大きいものであった。また、札幌周辺の移住がほぼ終了し、それ以降の石狩平野内部の開拓にとっても意義の大きいものであった。