この図版・写真等は、著作権の保護期間中であるか、 著作権の確認が済んでいないため掲載しておりません。 |
写真-2 石置き屋根の建物 明治5年(北大図) |
六年に入ると、ケプロン、ホルトなどの外人顧問の指導や開拓使役人の技術習得によって西洋式建物が一時に出現した。その代表的なのが同年十月完成の開拓使本庁舎で、このほか勅奏邸、大主典邸(青官邸)、小主典邸(同)、史生邸(赤官邸)、外国人教師館、西洋町長屋などである。なかでも開拓使本庁舎は、アメリカ人顧問指導のもと銅板葺の屋根中央に八角形のドームをシンボルとして据えた木造洋式建物で、落成式後一般庶民に公開し、西洋建築の壮大で華麗な威圧感ある姿が、和風建物しか知らない人びとを圧倒させた。本庁舎の竣工は、外人顧問をして「本庁ノ結構欧風ニ倣ヒ、壮麗ニシテ其大サ最モ適当シ、日本建築旧習ヲ脱却セリ」(ホラシ、ケプロン第一報文 新撰北海道史 第六巻)と言わしめたように、札幌の建築洋式に著しい変化を与えた。
これらの官舎は、九年十月二日の庁下官宅払下規則に基づいて官吏をおもな対象としつつ、一般市民へも土地・建物ともに三六カ月無利息で払い下げられることになった(明治九年庁下官宅一件 道文一六四二)。さらに同年十月二十日の官舎貸渡規則に基づいて、物価高騰で需要の少ない折から官舎を「元金ノ五分」の家賃をもって九年一月にさかのぼって賃貸することとした(布令類聚)。
このように官営建造物の多くは洋式の斬新なものであったのに対し、一般の商家・農家の住宅は石置きの柾葺で貧弱なものであった。それでも八年には、商家の住居に取入れるものもあらわれたとみえ、「其豪冨賈ニ至テハ間々西洋風ノ家屋ヲ結構スル者アリ」(開拓使公文録 道文五七六二)と記されるにいたっている。