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「芸娼妓解放令」

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 東京楼の開業は、札幌本府建設中の開拓使にとって商業活動上あるいは札幌に人を足止めさせる大きな力になると期待された。ところが、開業一カ月もたたない十月二日、太政官より人身売買禁止の布告が出され、遊女を年季奉公で拘束する「遊女屋」は、芸娼妓を解放しなければならなくなった。「官設」東京楼もその例にもれず、開拓使の厚い保護を受けたにもかかわらず前述の太政官布告をもろにかぶって衰退し、破産に追い込まれるにいたる(同前)。
 この十月二日の太政官布告は、五年七月、横浜でペルー船マリア・ルイズ号より中国人苦力(クーリー)が逃亡した事件に関連して日本の人身売買的芸娼妓の存在が国際問題とされたため、政府は対外政策上年季奉公などの名目でその実売買同様の地位にある芸娼妓を一切「解放」するよう布告したもので、一般に「芸娼妓解放令」(以下「解放令」と略記)と呼ばれている。
 「解放令」を受けた開拓使東京出張所は、開拓使本庁のお膝元札幌に遊廓を建設し、営業に関して厚い保護を加えていたゆえに、何らかの対応に迫られ困惑した。北海道出張中の黒田開拓次官の判断を仰ぐために、札幌本庁との協議の結果、同年十一月二十三日付の黒田開拓次官から太政官正院宛の次の文書となった。
  正院御中   開拓次官黒田清隆
先般娼妓等解放之御布令ハ実ニ聖世之美典ト深奉感戴候得共北海道ハ百度草創之際人気ニ致関係候情実之ニ付緩急弛張之順序ニ於テ施行之方法取調不日ニ奉伺度其間ハ右御布告管内布達之儀一先ツ見合置候条此段申上置候也
  壬申十一月廿三日
(稟裁録 道文一〇六九八)

 開拓使としては、「解放令」を「聖世之美典」と一応評価の姿勢をみせながらも、北海道は万事草創の時にあり、気風にも関係することであるので北海道内施行を一旦見合わせるので「申上置」くと、施行延期をいとも楽観的に上申した。
 しかし、五日後の十一月二十八日付の太政官正院からの回答は、開拓使にとって予想外に厳しいもので、「布達見合之儀申出之趣不及御沙汰早々施行可有之」と、開拓使のみ例外を認めるわけにはいかないので早急な施行を促すものであった(同前)。
 これを受けた開拓使東京出張所では、開拓使管内への施行を引き伸ばすという持久戦にでた。結果的には、開拓使は形の上で「解放令」を太政官布告の翌月の十一月に開拓使管内へ布達したことになっているが(布令類聚)、実際に札幌本庁・函館支庁へ管内布達を命じたのは、翌六年一月九日付である。これが実際札幌本庁管内に布達されたのは二月五日、函館支庁管内は二月十三日であったから、開拓使がいかに「解放令」の施行に抵抗があったかが知られる。しかも、一月九日付の開拓使管内への「解放令」の布達命令の文言には、「就てハ民間ニおいて万一娼妓放逐ト致心得違目前游離之者有之候て不容易事」(開拓使公文録 道文五七五八)なので、別紙「壬申十一月」付の開拓使方式の「解放令」に従うようにと、いかにも前年十一月に開拓使が「解放令」を布達したかのように工作しているところが苦しいところである。その「解放令」の内容も、人身売買の禁令を「聖世之美典」と一応評価しながらも、次のように骨抜きにした内容であった(同前)。
 ①年季解放により帰る所のない者は旧抱主や資本主に寄寓しても構わない。
 ②以後芸妓娼妓を希望する者は、出願次第許可証を渡し、その代わり公認料を支払うこと。
 ③衣食の経費・家財等旧抱主または資本主から借用したり、双方で持ち合って営業して構わない。
 ④これまでの貸借関係は、相対和談、年賦返済の方法をもって穏便に行うこと。
 これら四カ条は、「解放令」やその後の司法省達二二号の精神とは相容れない、芸娼妓の人権を保護するどころかむしろ営業主が損をしないような配慮さえうかがわれる。結局のところ、四カ条目はさすがに全国との体裁上に関わる問題だけに、開拓使東京出張所から「至急御取消」の指令が出された。しかし札幌本庁では最終的には北海道の「情実」を踏まえ、芸娼妓が旧抱主や資本主と相対和談になることも「黙許」せよ、そのことを関係官員は含んでいるようにと、「解放令」を骨抜きにしてしまった(開拓使公文録 道文五七五八、諸県往復留 道文七四七〇)。