開拓使は、札幌本府建設とともに市街地のなかにあらかじめ遊廓地を定め、公娼制度を採用した(第四節参照)。梅毒検査および治療は、この公娼制度と一体となって出発する。五年一月、開拓使が「公然売女」を太政官正院に届け出た翌月、早くも開拓使御用掛医師南部精一が「楳毒院御取建仕法書」を提出し、梅毒院設立を建言した。その仕法書には、「楳毒疥癬之皮膚悪液病等有之候テハ一婦之毒ヲ以百男ニ染及候儀ニ付先以梅毒院御取建相成毎一週一婦も不洩様検査致候得ハ自然人夫ニ毒種ヲ及シ候患モ無之」と、「売女」の梅毒検査のための施設を設けることを提案した。さらにその見積書によると、「売女」五〇〇人に対し患者一割半とみこして七五人、一日検査六〇人ずつを毎週一回検査するとして、医師、看護手伝、医療器具、諸道具、薬価代、その他合計金九六〇円と見積っている。この場合、検査費用、運営費用は「売女」の負担となっていた(取裁録 道文四六七)。
結局五年六月、南部精一の建言を取り入れて石狩通官舎を仮梅毒院にあて開院した。同年九月、雨竜通に梅毒院を新築し、さらにこの建物が札幌病院として使用されるようにいたったので遊廓内福島通に娼妓梅毒検査所を新築した。娼妓の梅毒検査については、六年二月開拓使は「芸娼妓解放令」を施行するにあたって暫定的に出した達のなかで、「娼妓ハ一般黴毒院ノ鑑札ヲ請、定日検査相願フヘキ事」(布令類聚)と検査を義務づけた。六年九月、札幌病院が落成し仮病院、梅毒院を合併した。この時点で定められた「病院規則」中の「娼妓梅毒検査」条項では、娼妓免許の者は必ず梅毒検査を受けること、検査は毎月五日目ごとに受けることなどが義務づけられた。その後も梅毒検査および治療に関する規則は何度か改定をみたが、十年五月の「札幌小樽三業規則」の中の第六章「娼妓黴毒検査」では、娼妓営業の者毎土曜日に検査を受けること、新たに娼妓営業の者は検査を受けて無毒証鑑札を願い出ること、入院薬価は税金(のち賦金)のうちより賄うこと等が定められた(同前)。しかし、十五年の規則改正で梅毒治療の入院薬価代が自費にされようとしたが、石狩の娼妓たちの嘆願により「当分検黴費トシテ賦金」のうちより賄うことになった(札幌県公文録 道文七二四八)。
こうして、梅毒に対する検査治療は次第にすすみ、十六年一年間に札幌病院で検査を受けた娼妓は延べ三四九三人、うち患者は七六人におよんだ(明治十六年札幌県統計書)。