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救済事業

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 開拓使初期においての救済事業は、二年九月の布達に「土人ハ不申及移住ノ者タリ共鰥寡孤独並老年又ハ奇特者等不洩様」(布令類聚)とあるように、アイヌの人びとをはじめ一般移民にも適用された。同年十一月には、移民およびアイヌの堕胎を禁じ、困窮のため養育できない出生児に対しては玄米三斗五升入三俵を与え、また妊婦の使役を禁じた(第二節参照)。
 六年四月「北海道樺太窮民賑恤規則」を定め、一般移民・アイヌの区別なく、鰥寡孤独者幼者を保護することとした。それをさらに状況ごとに内容を詳細にして改定したのが九年八月の「改定賑恤規則」である。この内容は、鰥寡孤独者、流行病の場合あるいは水火風震等の天災地変等の場合の官の救恤の仕方である。しかし、これは純粋な貧民救恤というよりは「天恩」に近いものであった。
 開拓使は、不慮の水火災難・凶作等に備えて社倉設置や貯蓄米金の制度を導入した。六年一月松本十郎判官の市在積穀制度がそのはじめである。それは札幌の地が百物を本州にあおいでいるため、一度本州との交通途絶や積雪のため小樽・札幌間の人馬往来ができない場合、米価騰貴のため生活に困窮をきたし、ひいては政務にも支障をきたすので予備米を貯蓄する制度を確立しようとするものであった。この方法として、市中と村両方に「積穀規則」を定めたが、六年の不景気のために実現されなかった(開拓使公文録 道文五七四八)。
 八年七月以降開拓使は、従来救荒賑窮の予備米あるいは備米の名義で貯蓄の米穀を、以後準備米と称することに定めた。この準備米方法にならって各村々でも備米や備金制度を採用し、下手稲村では八年二月より一戸につき二円六〇銭ずつ二九戸が拠金した結果、十一年三月には元利ともに七五円四〇銭に達した(管下各郡社倉設置方法並貯蓄米金調書 道図)。また、白石村でも十一年備穀方法を定め、一戸大麦四斗ずつ貯蓄したり(白石村移住以来保存ノ書類 道開)、円山村でも十八年円山村積穀規約を設置し、非常の備えとした(円山百年史)。