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札幌新聞の創刊

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 十三年二月十四日付で、「持主 重久篤敬」の名で「新聞発行願」が提出された。紙名を「札幌新聞」、仮編集人伊藤辰造、印刷長を石川正蔵、刊行形態を「毎水曜日刊行」とし、内容は「北海道殖産勧業之実況并開拓使布令報告等ヲ記載シ、且論説雑報及ヒ詩歌等ヲモ併セタルモノ」(出版及新聞紙等ニ関スル書類 道文三七九八)とする計画であった。すなわち「殖産勧業」、「開拓使布令報告」類を主とし、従として論説以下が含まれることになる。これを開拓使側の事情からみれば、開拓に関連する法令及び開拓の現況等を周知させるために発刊した『開拓使日誌』の刊行は十年に廃止となり、印刷所も同年東京から札幌に移して本庁記録課所管の活版所となり、また六年十月発刊の『新報節略』と題する一般ニュースを収録した刊行物も八年四月に廃刊となっていた。一方道内でもすでに十一年一月に『函館新聞』が発行され、札幌での刊行の要望もあったといえる。
 願書の持主重久篤敬は、前出の重久安都男と同一人物ではないかと思われるが、明らかにし得ない。伊藤、石川は共に著名な実業人であり、かつ総代人等の公職もつとめた有力者である。
 この願書は三月三十日付で免許を得たが、五月二十五日付で、持主を重久から新たに結成した創成社へとする変更届、及び仮編集人伊藤を除名し正式な編集人を沢口永将とする変更届が、石川から提出された。沢口は嘉永元年(一八四八)生まれの宮城県士族で、五年三月開拓使に任用され、浦河支庁を経て八年一月に本庁会計局検査課勤務となり、十年三月に開拓六等属となった、主として会計業務に従事した人物である(判任官履歴録 道文二三七)。官員としてはこれ以降は確認できないが、当時の戸籍によれば十三年三月に渡島通二五番地に加籍となっており、あるいはこの頃に同新聞編集人となるために官を辞したのかもしれない。同新聞は十三年六月十六日付で創刊された。

写真-12 『札幌新聞』創刊号