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札幌への離宮設置案

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 札幌への離宮の設置案は、早く明治十五年に当時の札幌区長である山崎清躬から出された。それは県令から札幌県治上に関する意見を求められたときの上申である。内容は、将来の北都の選定の前に北海道の開拓を進めるため、全国民への宣伝のために札幌に離宮を設置すべきであるという程度のものである。道庁の時代になって、二十三年上川へ離宮を設置することが決定した。この時札幌の市民は、その計画実現のため献金している。しかし二十六年になると上川への離宮設置に対抗する形で、再び札幌への離宮設置案が『北海道毎日新聞』紙上に発表された。それには、まだ開拓進行中で交通の不便な上川への離宮設置を一時中止し、現在すでに都市となっている札幌に離宮を建設すべきである、というものである。そして一〇〇年後、北海道開拓の実効があがり札幌が大繁栄した後に、離宮を上川に移しても差し支えないであろうというのである。そして最後に「目下、札幌の基礎未だ確定せざるの時に当り、直に曠漠無人の上川に、離宮を設置せらるるが如きは、決して策の得たるものにあらず」とつけ加えている。二十三年の上川離宮設置決定の際には献金の記事まで載せた態度とはかなり違ったものになった。
 この頃札幌は、二十年代前半までの大下水工事、原野排水工事などが終了し公共投資が一時的に途切れ、さらに二十五年の札幌大火後の不況期であった。その不況対策として離宮を建設するという案が出されたようである。また十五年は開拓使から札幌県に管轄が変更されたときで、開拓建設などの事業の縮小が必須の状態のときであった。この時の設置案も同様の趣旨のものと考えてよいであろう。逆に二十三年はまだ土木工事の実行中で景気がよく、後に「贅沢時代」と呼ばれるような時期であった。だから札幌市民も上川離宮建設へ献金をするほど余裕があったのである。
 結局離宮設置の案は不況対策のために出されたもので、実際の札幌の都市建設には影響を与えなかった。