北海道が大麻の栽培に適しており、漁業が主な産業であったことから、開拓使は農民に大麻を作付させ、これを買上げて漁網などの生産を行っていたことは既述の通りである。内務省技師であった吉田健作は農工業調査で十一年フランスへ留学し、日本産の大麻紡織の機械工業化を意図して亜麻紡績を専攻した。十四年帰朝し、十七年には近江麻糸紡織会社の設立に協力した。このことから十九年十月、北海道庁理事官堀基は農商務省に吉田技師の派遣を求め、吉田の意見により海外に比較して北海道が麻糸紡織の適地であることを確信し、岩村長官、堀理事ら吉田技師とはかり、東京、滋賀、京都等の有力者を説き、道庁が補助として払込資本金に対し六カ年間五朱の補償を与えることの条件で、小室信夫、渋沢喜作、永山盛繁らを創立委員に、吉田健作を官命事業監督として、二十年五月資本金八〇万円、株主一九〇人の北海道製麻株式会社(北七東一)の設立をみた。二十二年六月雁来村に、翌年十一月新琴似村に製線所を設置して、本社工場へ原料供給を行うと共に、本社工場の紡績設備もまた進捗し、二十三年には本社工場が竣工、札幌、東京、鹿児島、福岡、大津の各地から募集した三〇〇人に及ぶ男女職工により全作業を開始した。製品について糸類では蚊帳用太糸、麻細糸、織物では帆布、麻布、ズック、将校及び水兵服地等を生産販売して好況を呈し、原料作付反別もまた増加し、二十六年度で九〇〇町歩余であったものが、二十七年度では予約反別一九〇〇町歩余に達した。
なお官営の札幌製網場は二十年十月永山盛繁に七カ年賦で払下げ事業を継続させ、同製網場は二十二年資本金五〇〇〇円の会社組織に改められ、二十三年二月年賦金を五〇カ年賦一割利引一時上納を請い、二一六円二銭二厘即納で払下げをうけた。二十四年石狩川鮭不漁で網価低落し損失をみたとして、五〇〇円、翌年は一〇〇〇円の減資を行って資本金三五〇〇円になっており、経営は順調ではなかったようである。二十八年現在の経営者は鮫島盛一で、工員は自宅で従事する者およそ三〇〇人とある(北海道庁勧業年報)。