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道庁の設置と移住政策の転換

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 明治十九年に北海道庁が設置されるに及び、移住政策も大きな転換をみせた。それはまず第一に、移民への直接保護の停止と間接保護の展開である。すでに十六年四月二十四日に、太政官から発布された北海道転籍移住者手続により家作料、農具、種物料の支給は廃止となったが、十九年七月二十二日には先の手続も廃され、渡航費の支給も停止されてしまった。これは二十年五月十一日に全道郡区長会議でおこなった、初代長官の岩村通俊の演説によると、「内地無頼ノ徒ヲ召募シ、北海道ヲ以テ貧民ノ淵藪ト為ス如キハ、策ノ宜シキ者ニ非ズ」(新撰北海道史 第六巻)という理由であったが、これまでの移住者を「内地無頼ノ徒」とみなす認識は問題であり、従来の移民政策の全くの否定といってよかった。
 直接保護にかわってとられた間接保護とは殖民地の選定と区画、移住手引書の編纂、土地制度の整備、港湾・道路・鉄道などの交通網の整備で、概して移住環境の整備である。しかしこれらはただちに移民招致には結び付かず、移民政策の放棄に等しく、後に再転換をせまられることになった。
 第二には、第一と関連して移民より資本誘致に転換したことである。岩村通俊は先の演説の中で、「自今移住ハ、貧民ヲ植エズシテ富民ヲ植エン。是ヲ極言スレバ、人民ノ移住ヲ求メズシテ、資本ノ移住ヲ是レ求メント欲ス」と述べ、富民=資本の移住を求めている。この意図にそって公布されたのが、十九年六月二十九日の北海道土地払下規則で、盛大事業は無制限とし、一般には一人一〇万坪が限度とされた。
 間接保護、資本誘致に続き第三としては、移民の重点が屯田兵に移されたことである。二十~二十二年に新琴似、篠路に屯田兵村が開設されたのを始めとして、最後の屯田兵村となった三十二年の士別・南剣淵・北剣淵兵村まで三〇兵村が設置されている。これは統制のきく屯田兵の方が開拓効率がよいために採用されたものであったが、逆に〝検束移民〟として批判もあびている。
 以上のように道庁の移民政策は、初期においては小農民の移住を求めない問題の多いものであった。その結果、一部の資本家や有勢者による大地積の貸下による大農場制が進行していった。二十年代以降の札幌市域の開拓も、北海道土地払下規則の影響下の中で進展していった。