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混同農業の農場

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 札幌市域には、明治十九年六月二十九日に公布となった北海道土地払下規則に基づき、大地積を収得した官吏、商人、実業家、華族らが経営する農場が続々と設置されていった。農場の設置状況及び農場小作人の増大傾向については先に第一節でみたとおりであるが、ここでは主に農場の経営につき焦点をしぼり見ていくことにする。
 札幌市域の農場は、明治二十年代半ばまでは牧畜業を兼ねた混同農業や場主による直接経営を意図したものが多かった。そして二十年代後半から畑作の農業経営、小作制導入による地代収益経営へと変化していく傾向が指摘できる。
 まず混同農業の農場の典型に、堀基の経営する堀農場があった。堀農場は篠路村茨戸にあり、二十二年八月に一〇〇〇万坪の土地貸下を受けたことに始まる。二十五年の『北海道毎日新聞』の「堀農場の実況」(二月六、七日付)によると、二十四年度には牧牛七七頭、牧豚三八頭、耕馬一二頭を有し、耕地は約三七町四反歩、牧草地は約四二町三反歩であった。収穫物はチモセ五〇トン、オーツ一〇トン、蕎麦一石、玉蜀黍(とうもろこし)四〇石、大麦二四石二斗、小麦九石六斗八升、燕麦一八三石九斗七升、人参五〇斤、蕪青(かぶ)二五トン、馬鈴薯一〇万四〇〇〇斤となっていた。堀農場は牧畜を主とし、作物もほとんどが飼料であったことがわかる。また農場内には三五八七間の排水路、一二二四間の道路を敷設し、アメリカよりアイシヤ種の牛五頭(そのうち二頭は第三回内国博覧会にて有功一等賞となる)を輸入し、設備投資にも相当の費用をかけていた。
 堀基は二十七年に貴族院議員に選ばれ東京へ転居するに及び、農場は五月に藤波言忠前田清照に、さらに八月には前田利嗣(旧加賀藩主、侯爵)へ三万四八九円にて譲渡され前田農場となった。
 平田農場もやはり混同農業を目的とし、二十年六月に新潟県北蒲原郡出身の平田類右衛門・多七により設立された。場所は二十九年調の「札幌区連絡附属図」(札幌市蔵)をみると、南は現北一五条付近、北は北二七条付近、東は創成川、西は北大敷地までの区域である。面積は一〇二町七反歩であった。『北海道通覧』によれば、二十年から二十二年までの経費は表26の通りであった。また二十三年から二十五年までの収支損益は表27のようになっており、二十四年からは収益を出すに至っている。つぎに二十四年中の耕種反別をみると、小麦二町五反歩、大麦三町五反歩、燕麦一六町歩、小豆一三町歩、亜麻七町歩、馬鈴薯五町歩、玉蜀黍二五町歩、果樹一三町歩、牧草その他五町歩となっている。飼育畜数は馬二一頭、豚四〇頭、牛一三頭、その他鶏類が数十羽(北海之殖産 二五号)であり、平田農場堀農場と異なり牧畜より農業の方に重点を置いたようである。長沼村にも二十三年九月に六二五町歩の地積を持つ第二農場を開いている。
表-26 平田農場経費(明治20~22年)
開墾費14351円68銭0厘
建築費3475. 65. 5
農具購入費2247. 40. 0
農馬購入費643. 08. 7
道路排水費1867. 88. 1
乳牛種豚購入費660. 57. 7
菓樹園費1095. 67. 0
創業費2158. 05. 0
26500. 00. 0
北海道通覧』より作成。

表-27 平田農場収支損益(明治23~25年)
明治23年24年25年
農産収入2862円84銭5厘3114円60銭0厘3971円50銭0厘
耕耘牧畜費2990.51.02271.69.12123.15.0
利益842.90.91848.35.0
損失127.66.5
北海道通覧』より作成。

 平田農場では、「将来益々牧畜菓木の蕃殖培養を計」(北海道通覧)ることが意図され、市内に牛乳販売も行っていたが、二十八年に譲渡され市島農場となった。