札幌の屯田兵村はこの構想のもとで拡充され、新たな展開をみるにいたる。すなわち新琴似兵村と篠路兵村の新規設置をもたらし、札幌市街を東西南北でとり囲む兵村配置の完了をみる時期である。これを札幌の歴史の中で兵村の大きい節目とみなすことができるから、新琴似・篠路両兵村開設以前を札幌兵村史の前半、開設後を後半として二期に区分する(札幌の屯田兵 さっぽろ文庫三三『屯田兵』)。前半は本巻第五編五章で記述したので、この章はそれを受けて札幌屯田兵村史の後半期を扱う。なお本巻は区制施行以前を対象としているが、屯田兵村についてはその後なお数年継続し、この間を次巻で再録するほど長期ではなく、特記するには繁雑にすぎるので、三十七年兵制廃止までを本章に含めることとする。
ここで札幌市史と北海道史上の屯田兵制時期区分の差違についてふれておく必要があろう。単一兵村を歴史的にみるならば、服役期間をメルクマールにして現役予備役時代と後備役補充役時代に分けるのが最も適切と思われる。札幌の場合は現役予備役完了時すなわち後備役の開始時が四兵村ともほぼ同じなので、この区分が使えないわけではない。しかし琴似・山鼻と新琴似・篠路兵村では道内他兵村におよぼした影響に大きな差があり、開設時における札幌の社会事情もまた大差があって、服役期間で区分すると特に初期兵村の意義をとらえることがむずかしくなる。これが札幌(江別を含め)兵村史の特徴の一つともいえよう。
全道的にみれば屯田兵の族籍条件をメルクマールに士族屯田と平民屯田の二期に区分する例がある。二十三年の屯田兵条例の改正内容とからませ「二十三、二十四年の間に、画然たる一線を以て、以前の士族、以後の平民出身と相分つ」(新撰北海道史 第四巻)ことができるとされてきた。前半期の初期入地者を個々にみるならば事情はきわめて複雑で〝画然たる一線〟どころか、かすかな点線を引くことの意味もないであろう。形式的な建前としては呼び得ても実態がともなわない。厳密な意味で士族限定条件にあてはまる屯田兵は、十八年から二十三年までの招募者だけであり、三〇年間の兵村史上、その中間の六カ年にすぎない。全道的にみるならば士族限定条件は特例的な出来事といえるので、これをメルクマールにして二期に区分するには無理がともなう。
早くから兵制史で使われてきたのは三期に分ける時期区分である。すなわち屯田兵を所管する機構の変遷によって第一期開拓使従属時代、第二期独立時代(陸軍省に属し単独の機関)、第三期第七師団従属時代とする(上原轍三郎 北海道屯田兵制度)。こうした考えにはそれぞれ利点があり、全道的な兵村史の理解に役立つが、そうした制度改正が具体的に形をあらわす札幌という土地に則した場合、十九~二十年前後をもって区分するのがより妥当と思われる。