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自治の芽ばえ

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 兵村運営は中隊本部の統轄下におかれたので、今日的な自治組織が生まれる余地はなかった。とはいえ新たな隣人が助け合い融和して暮らしを安定させ豊かにする努力は常にあったし、それが自治精神につながる村づくり志向となり、兵村社会の底流に生き続けたと思われる。兵制上は五人を一組にして伍長を置き分隊小隊編成につなげ、後には一二~一六人を一組にして給養班とし小隊につなげ、これが社会生活の最小単位として機能したが、こうした兵制にもとづくものとは別に生活の安定と向上をめざす住民組織が芽ばえてきた。
 たとえば山鼻兵村をみると、村内には「懶惰にして酒を飲み甚た不成績」「不良者放逐の為め態と此等の者の籍を士族と偽造して送りしならん」(河野常吉編 札幌史料)といった不和が絶えなかった。出身郷里が異なり言葉や習俗の差から、こうした不和はどこの兵村にもあったことだろう。誤解をほぐし不和を解き親睦を深めるため、二十二年山鼻兵村では自発的な私設組織として一二の隣保組合をつくり、道路をはさみ向かい合う一〇戸ずつ計二〇戸を一組にして名誉職組長を一人ずつ互選して近隣親和に努めた。吉凶禍福の互助、春秋の親睦会、勤勉貯蓄、火防衛生、道路維持、農事改良等を主な事業とし、組員の意見取りまとめに大きな役割を果たし、後の部落会や山鼻自治会へ発展する基礎を固めたのである。
 こうした組織のねらいは主に親和互助、勤勉貯蓄であったが、屯田兵は給与米金から強制的に備荒貯蓄させられていた。当初は二割を天引され、のち入地一年目は一割五分で二年目から三割に変わる。これを屯田積穀といい巨額な資金になったが、会計法により官庁がこのような金を保管運用してはいけないことになり、その処理が問題になった。
 新琴似兵村では積穀資金の個人返還を希望する者が多く、中隊本部に預金高を知りたいと願い出る者がいたが、聞き入れられなかった。屯田兵司令部はこの資金をもとに銀行を設立しようとしていたのである。希望が受け入れられず、幹部による不正流行の噂が流れると、いよいよ不満がつのり、ついに二十三年十月中隊長官舎に向けて発砲する事件が起きた。安東中隊長は無事だったが、加担者は逮捕され軍法会議にかけられ服役、篠路兵村からの同調者には銃自殺者が出た。このため新琴似兵村のみに積穀金の一部が払い戻され、あとは屯田銀行の株券に変わったが、それが兵員兵村にどのような利益をもたらしたか列挙するのは難しい。
 こうした兵員家族の意見や要望を聞き取り、まとめていく仕組が兵制の下にあっても必要であった。それを初めて制度化したのが二十一年十月の兵村会規則である。のちに現役兵村を別にして兵村諮問会を置いたり、後備役兵村には後備兵村会の名を付し、中隊本部(後備役は兵村監視)の監督のもとで条件付ではあるが協議機関が生まれた。兵員から議員(会員)を選出し、学校維持、土木、備荒、農業改良、家族相互扶助、衛生、公有財産等について協議執行し、兵村に関わる予算決算も議事事項とした。
 兵村会の設立運営は兵村によって異なるが、山鼻では二十一年十月に早くも設立され、諮問会に移行することなく後備兵村会―部落会へと引き継がれた。琴似は当初設立を見送っていたが地区改正兵屋移転問題で必要に迫られ二十四年に組織された。これらは三十四年兵村会概則の廃止によって消失するが、多くは公有財産取扱事務を吸収し、私的な住民組織を合わせて独自の規則を定めて存置し、新琴似は(新)兵村会―屯田親交組合―部落会と変わっていった。いずれも町内会、自治会の基本単位となるが、行政村の理事者、協議機関と深く関わり、地方自治発展の礎石となったといえよう。