札幌の組会が属する函館連回の長老司J・ワィアーは、二十四年の美以教会日本年会に、札幌では美以教会員の増加にともない教会設立の必要性が起こったと早くも報告しており、さらに翌二十五年には次のように報告した。
札幌は北海道教育殖産の中心、政治上の帝京、官立農学校試験所等の処在地にして、茲に新聞記者公証人財産家等より組織せる強固なる我組会あり、此団隊(ママ)は我教会の当地に確立せんことを催んため、厳格なる代表者を我連回に派し言はしめて曰く、彼らに有力の伝道者を遣はせ、然らバ直ちに会堂を建立し、翌年より牧師を自給すべしと、連回総員右請求を受入れ年会へ保挙すべきに決す、札幌は殷賑頓に進み其住民ハ我教会員を増加すべし、若し吾ら彼らを抱込ざれば彼ら他教会に往くは必然なり、此頃英国の教会派遣会社の監督は当地を巡廻して其暫時も忽諸に附すべからざるを察し即坐に会堂設立のため充分の資金を自分の金着より義捐せり
(函館長老司連回報告 美以教会第九回日本年会記録)
こうして美以教会札幌組会員らは二十五年十一月十九日、南一条西二丁目に建築した会堂の献堂式を挙げ、三連夜演説会を開催した。札幌美以教会を組織した最初の会員は二十余人、初代牧師は松浦松胤であった。この教会も順調に教勢をのばした。
日本聖公会は、J・バチェラーによって札幌の宣教を再開した。バチェラーは北海禁酒会の講師としてアイヌ人への禁酒を奨めるため、政府から臨時の巡回旅行と札幌への転住を許されていたが、二十五年、転居して北海禁酒会アイヌ矯風部によるアイヌ施療病室の経営に当たることになった。聖公会の集会所は前年二十四年、北四条東一丁目吉田藤八方に置かれていたが、バチェラー転居のこの年、集会所は信徒一七人によって札幌聖公会となって南二条西二丁目に設立された。さらに翌年には大通西四丁目に新会堂を建築した。バチェラー自身はアイヌ施療病室の隣、北三条西七丁目に住み、全道的に巡回し、山田致人(むねと)が定住の伝道師となっていた。
写真-8 J.バチェラー