二十七年八月一日の日清戦争の勃発以来、札幌の街や村の人びとの生活に大きな変化があったとすれば何であろうか。徴兵令が施行されていない札幌において、少なくとも札幌に本籍を持つ者にとって屯田兵以外は直接戦地へ赴かなければならないといった事態はまずなかった。しかし、市民たちは近代国家になってのはじめての対外戦争についての情報を新聞で、あるいは当時普及しはじめたばかりの幻灯機を用いての戦況報告会等を通じて入手していた。実際まだ身近に出征兵士がいないこともあって、戦勝祈願や追弔をいち早く行ったのは、仏教系寺院である。十一月三日には札幌の新善光寺が、「連戦連勝」を祈念して「全勝四海泰平ヲ祈願」するとともに、「皇軍戦死ノ忠魂離苦得楽超生浄土」、「敵軍戦死ノ追福」のために追弔法要を行った。
二十八年三月四日、屯田兵員をもって臨時第七師団編成の命が下り、翌五日に日赤道支部の篤志看護婦人一行が東京へ向け出発する等、屯田兵の出征がささやかれるようになると、にわかに身辺があわただしくなった。成田山では、軍人安全祈禱のため毎日護摩修行を行うとともに参詣人のうち希望者へは身代わり守護札を授けた。豊平村の慧林寺では、陸海軍戦死者の追弔法要を営み、同村の経王寺でも「清征公勝」の守札を有志に配布した。やがて陸軍将校の予餞会を皮切りに、出征兵士の予餞会が様々な単位で行われるようになると、北海道の総鎮守札幌神社でも屯田兵の「健康安全ノ祈禱」を行うようになり、南二条東三丁目の札幌神社遙拝所の「軍人安全」の祈禱と合わせて、札幌の人びとにとって戦争が次第に身近なものとなってきた。