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薄野・密売淫問題

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 札幌区内薄野に遊廓が札幌本府建設と同時に建設されたことは第五編九章四節で述べたとおりである。明治二十年代以降の札幌区が公認したところの貸座敷および芸娼妓数は、二十一年の場合貸座敷一五軒、芸妓四六人、娼妓一二三人(明治二十一年札幌区役所統計概表)であるのに対し、三十二年の場合のそれはそれぞれ三九軒、七七人、二九七人(札幌案内)と貸座敷数においては二・六倍、芸妓数においては一・七倍、娼妓数においては二・四倍の増加ぶりである。
 このように二十年代以降の札幌区は、札幌本府建設の時点で公認したいわゆる公娼制度がますます拡大強化されているといっても過言ではない。ではその原因を探ってみよう。
 北海道外の府県においては明治十年代から二十年代にかけて公娼を全廃することを決議した県もあらわれた。十五年には、群馬県会が日本で最初の廃娼県を名乗り出ているし、神奈川県も群馬県におくれること八年の二十三年には県会で廃娼を決議している。この主唱の担い手はキリスト教の人道主義にもとづいた人びとであった。
 札幌においても、遊廓設置時に唱えられたところの拓地殖民の基礎を固めるのに遊廓が必要不可欠であるといった考え方は多少なりとも声をひそめつつあったが、「廃止せよ」的な意見が出てくるにはまだ時間がかかった。たとえば、二十二年六月二十九日の新聞には、「侃々生」なる人物の狸小路の飲食店と薄野の貸座敷の他への移転を望む投書を掲載した。その理由は、両地がいまや札幌の中枢にあたり商業上不利益をこうむること、公・私娼の存在が風俗の乱れや子弟への影響があることを掲げた。そして、「侃々生」はそれらの営業地の候補地として中島遊園地近傍を掲げ、移転意見をはじめて表明した。
 この「侃々生」の意見を皮切りにこの年以降密売淫問題は、各種結社団体等演説会の演題や討論題に「廃娼」がのぼるにいたる要因ともなった(後述)。新聞紙上では、この問題がますますエスカレートし、二十四年になると「六十人に一人宛の売淫」といったショッキングな見出しを掲げ、全国がそうであるならば本道の場合、五〇人に一人あるいは四〇人に一人と書きたてた。この記事がさらに呼び水となり、「密売淫退治」的な一般読者の声が連日のように掲載された。警察でもこれらの声を無視するわけにもいかず、二十五年私娼の摘発に乗り出し、実際約五〇人の私娼が逮捕され、正業に就くか公娼になるかの二者択一を迫られた。結局同年、従来の「薄野規則」を改正して狸小路の飲食店二〇余軒を薄野廓内へ移転させ、三等貸座敷として公娼化させることでお茶を濁してしまった。公娼は同年中に一挙に約六〇人も増加している。
 この後「密売淫取締」を声高に主唱したのは、一般市民というよりはむしろ営業上のライバル貸座敷業者であった。二十六年には、営業者仲間が私娼撲滅策を打ち出し、営業者側の利益優先のみに終始する結果となった。