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細民の創出

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 二十年一月の『函館新聞』によれば、札幌区では近々市中の「極貧者」数を調査する予定とある。それは、当時札幌区内には仕事のない冬期間道内各地から札幌へ集まって来る労働者が多く、しかも住むところもなく糊口も凌げないいわゆる細民が目立ちはじめていたからである。このため、同紙によれば、細民たちを月寒の道路工事に従事させ、砂利運搬大山樽一杯(およそ一斗入れ)につき老若男女を問わず平均金一銭五厘ずつを給与することにしたとある。
 札幌における細民の創出は、道内外の不景気によってもたらされる場合が多かった。特に二十五年の場合、札幌の大火の上に西海岸の不漁、さらに空知・室蘭線鉄道工事の落成による不景気が引き金になった。札幌は、春雪解けとともに漁場、鉱山、鉄道工事等に従事する労働者を道内各地に送り出し、冬の訪れとともに再びこれらの労働者を迎え入れるといったサイクルをくりかえしていた。しかし、一旦不景気に見舞われると仕事に就けず、余った労働力が札幌に滞留することになった。
 また、日清戦争後の札幌では、各種工場の事業拡張にともなって、職工等労働者を斡旋する「口入屋」が増加したことは前述したが、これら斡旋業者によって募集された職工、人夫等々は、業者の「甘言」によって遠国から連れられてきた場合も少なくなかった。しかも、あまりの待遇の悪さに逃走する者も続出し、その果ては再び業者の手によって高額な斡旋料を課せられ次々と転業するはめに陥るか、「浮浪」労働者化する場合さえあった。
 やがて三十年代に入ると、そういった中から豊平橋下流の堤防地内に藁小屋を作って居住する者もあらわれ、小聚落を形成するに至った。三十一年四月北海道毎日新聞社は独自に細民調査を行い、調査結果を同紙に発表した。それによれば、「何れも貧なれども昨年一昨年と二年間の大景気此間に得たる所の金を以て彼等は器具衣服等を拵へ置たれば今や之を一枚売り或ひは一品売りて米麦にも替辛くも糊口を凌き居るより(中略)殊には積雪既てに解け今や百般事業の着手なれば又労働さへ厭はぬものは此後食ぬと云ふが如き憫然なき境涯に陥落やうな事は万々なかるべき」状況にあると報じている。
 このような細民の状況を北海道庁も看過するわけにいかず、三十一年四月十三日札幌支庁村上先は、管下戸長へ訓令を出し、米価高騰の折、民力を休養してあらかじめ凶災救済の方法を講じて不慮の変に処すことに努めるとともに細民の生活状況の把握を呼びかけた。しかし、三十二年の札幌区内の細民数は増加の一途をたどり、「一種の浮浪集合体」と呼ばれるほどで、警察も「浮浪取締」に出た。