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職員と機構

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 区長のもとで区行政を執行する職員組織が必要となる。既述の通り、区長就任までは札幌支庁加藤寛六郎がその業務にあたった。また札幌支庁の職員のうち、属、事業手から一七人が札幌区役所事務取扱を嘱託され、雇員の一七人は支庁を退職して区役所雇員に採用されることになった。この組織をもって当面は区会議員選挙、区会開設の準備を整え、区長候補者選出、そして助役収入役収入役代理者の任命を待つことになる。助役は区会の選挙により道庁長官の認可を受け、収入役収入役代理者は区長の推薦により区会で選定し、やはり道庁長官の認可が必要であった。
 三十二年十二月十五日の区会で、助役石丸弘陽収入役河田保収入役代理者佐々木忠太郎を選出し、認可を得て初登庁したのは十二月二十二日のこと、これから区役所業務を本格的に整備し「松田寿三郎以下九名を区書記に任用して、自治行政機関の組織を完了し、札幌支庁庁舎内に区役所を設けて執務を開始せり」(札幌区史)という。区制期にあっては、以後助役河田猪三郎杉本喜久治郎前田宇治郎収入役佐々木忠太郎石原孝信、そして収入役代理者は佐々木の収入役就任後補充されなかったが、大正七年六月十八日真木真之がつき、市制移行にともない自然退職となった。
 区長、助役収入役収入役代理者の四名を除く区役所職員(付属吏員)は区会で定員を決め区長が任免することになっているが、区長就任までの臨機処置として道庁長官の指揮により区長事務取扱のもとでなされた。その定員は二〇人としたが、実際に発令された人数は明らかでない。区会が開設されて「区書記以下付属員定員規定」が可決され三十三年のはじめから施行されるが、その際の定員は三五人(書記一三人、技手二人、雇員二〇人)である。ところが三カ月足らずで書記二、雇員五人の増員を区会に提案して批判を受けるが、最終的には認められた。以後の職員数は表4のとおりである。
表-4 区役所の職員数
合計主事技師書記技手書記補(雇)嘱託傭員技術員臨時傭員掃除監督掃除巡視備 考
明治32年20--???------定員(出典:区政実施ニ関スル書類)
3337--13222------11月現在
3443--15226------ 9月(以後同じ)
3545--15228------
3654--???------
  3754--???------他に給仕小使10人
3851--???------同上10人
3954--???------同上10人
4054--???------同上10人
4156--18518-73014
4262--19521-52514
4368--19519-135214
4471--24521-104115
大正 169--24517-133115
270--24517-133413
364--25523-11414
464--24521-61214
565--24515-63714
664--24518-92114
7650124522-51115
8635219422-42014
9??????-?????
10764114519-851316
111294219519231436168月1日市制施行
札幌区事務報告』(各年)より作成

 区役所の機構はまず三課一部制により発足した。すなわち「区役所処務規程」(道庁訓令第五四号 明32・10・1)にもとづき、支庁機構を踏襲し函館、小樽とも同一の組織で業務を始めたのである(表5―ア)。これを札幌の実情に合わせるため、三十三年二月の区会で三課一部八係制を可決し、道庁の認可を受け三月五日から新処務規程を実施したが、課係数と職員配置がつりあわず、二カ月たらずで再編せざるをえなかった。すなわち三課を一、二課に分散し、衛生係を新設して二課一部九係として五月四日から実施した(表5―イ)。
 その後も機構の改編は度々行われ、四十年五月の処務規程では三係一部制、大正四年六月には課制に戻し四課としたが、二カ月後に六課制とし(表5―ウ)、七年十月勧業課を廃止して教育課を置いた。さらに人口増加、業務拡大に伴い区役所組織の大幅な改正が求められるが、職員数、機構ともども市制移行への課題とされたのである。

表-5 区役所の機構