政社の誕生をみる中で、政党活動が地方自治の進展を阻害しているのではないかと疑う人たちも多かった。「府県に於て、政治と自治とを混同し、政党関係を以て自治団体の選挙競争を為し、自治行政機関を挙げて政党の機関たらしめ、遂に自治団体を腐敗せしめたる弊害の前轍を憂慮」(札幌区史 九八九頁)するのは、道庁が立地する札幌区のあり方に関わり、しかも国家外交の基本政策よりも北海道拓殖施策こそ当面の課題とする共通認識にもとづく。「北海道は新開殖民の地にして実業の発達を期せざる可からず。而して実業の発達を期するには所謂る政治騒ぎを成るべく避けて、穏和に円滑に諸般の事を処理するを計らざる可らざるが故、此目的を実行する手段として一会を設けんと欲する」(道毎日 明32・9・10)。政党活動に不満を持つ人たちが同調できる政策団体をつくり、目前に迫った区会議員選挙に臨もうとしたのである。
進歩党とつながりを持つ北海道毎日新聞社の阿部宇之八、帝国党とつながりを持つ北門新報社の中野二郎をはじめ、対馬嘉三郎、森源三、大井上輝前等の呼びかけで、三十二年九月十日豊平館で発起人会を開き、その名称を札幌実業協会とし、非政社組織たる社交的団体として発足することを確認した。創立大会は同月十五日、同じく豊平館で開かれ、会の目的を、一、拓殖其他実業の発達を計り、以て国家の富強を期す、二、隣保団結を鞏固にし、地方共同の利益を増進し、以て自治の実を挙ぐる、ことに決めた。会員は札幌区内に住所もしくは居所を持つ者に限り、対馬嘉三郎が幹事総代となったが、「此ノ如ク札幌実業家ノ多数カ一堂ノ内ニ相会シ、且ツ和気洋々タリシハ、実ニ札幌開府以来未曽有ノ事ナリ」(伊東正三 札幌区史史料)という。
協会は事務所を現中央区南一条西二丁目に置き、一八〇人ほどが入会したが、十一月十五日臨時総会を開き、社交的団体から集会及び政社法にもとづく政社へ組織替えする決議をし、十七日この旨を警察署に届け出るとともに十九日広告を出した。
この結果、実業協会と憲政党の両者に加入していた人たちは、いずれか一方を選ばざるを得なくなり、双方を退会する人もいた。こうして札幌実業協会と憲政党札幌支部が相対立する形で、初の区会議員選出に向けて予選組織を整えた。初選挙に大勝した実業協会ではあったが、政友会の発足にともない政社の役割を失い、また「内部に反目生じ、到底旧態を以て進む能はざりしを以て」(最近之札幌)三十四年中に政社を解散し、札幌同志会へ組織替えをはかり、それも三十七年道会議員選挙に際して解散した。