札幌区による計画的な公園造成及び経営は、前述の円山養樹園の経営計画を発展する形をとる。まず貸下案を可決した明治三十六年十二月に村田不二三ほか六人が、予算の臨時部の公園費中に調査費などを計上するように建議した。その理由は「都市ニ公園ヲ要スルハ論ヲ俟タズ」として、中島遊園地と円山公園の整備について「公園ノ如キ之レガ創始ニ当リ宜シク地ノ理ヲ相シ天然ノ形勢ニ鑑ミ或ハ園芸家ノ意見ヲ徴シ或ハ各地ノ公園設計ヲ参酌シ以テ公園ノ規模ヲ奠メ詳細調査ヲ為スノ必要ヲ認ム」るためであった。この建議は区会で賛成を得て、藤井民次郎、谷七太郎、花村三千之助、久慈勘吉、大島六郎の五人を調査委員に指名した(区会決議録 明36)。
その後四十年になって、東京市役所嘱託員長岡安平と助手田中真次郎に中島遊園地と円山公園の設計を依頼した(札幌区事務報告 自明治三十九年十月至四十年九月)。十月その設計が完成し、新聞紙上に発表された(北タイ 明40・10・2、21、22、25、11・10、12~14 一部後出)。この計画書に基づき、四十一年田中氏を招聘し実測調査を行い、予算調整を行った(札幌区事務報告 自明治四十年十月至四十一年九月)。四十二年から一部事業が着手され、円山公園内に苗圃が開設され、大通には逍遙地に適する相当の設備を加えた(同前 自明治四十一年十月至四十二年九月)。しかし多大な費用がかかるため、四十三年には予算削減のため中島公園の予算だけが区会を通過した(北タイ 明43・2・14)。そしてこの年度は中島公園の計画の一割を実施することになった(北タイ 明43・4・14)。計画実施とともに、中島遊園地は中島公園と改称された(札幌区事務報告 自明治四十二年十月至四十三年九月)。四十四年には大通西七、八丁目の設営を完了した(同前 自明治四十三年十月至四十四年九月)。四十五年には中島公園に梅林が植林された(同前 自明治四十四年十月至大正元年九月)。このように円山公園、中島公園、大通逍遙地は明治四十年以降順次整備されていった。