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市街化の大字豊平村

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 大字豊平村は、三十三年の戸数五〇五戸、人口は二三七七人であり、農地も三五八町二反(水田一一町五反、畑三四六町七反)を数えていた(戸数・人口は「北海道戸口表」、農地は「豊平村平岸村月寒村沿革大略」による)。しかしながら豊平村は二十九年に、「現今戸数三百五十余戸、一の小市街を為し商七分、農三分の割合なるも数年ならすして一大市街となり繁栄に趣くへき状況あり」(道毎日 明29・10・30)といわれていたように、札幌の玄関口という位置にあるために、室蘭街道に沿って市街地が伸び、農村というより商業地として発展を続けていた。三十二年に至っても商七分、農三分という割合は変わらなかったが、「生活ノ度タル至テ低ク上九十六戸、中百四十三戸、下二百三十九戸」(豊平町史資料三)とされ、零細商店や職人、日雇労働者の多い地域であったとみることができる。
 豊平・月寒・平岸の三村の業種別にみた商工数の統計によれば(豊平町史資料二二)、以下のようになっている。物品販売業(32年 三五、33年 三七)、製造業(一六、一九)、土木請負業(二、一)、旅人業(四、五)、料理店業(一、〇)、仲立業(一、〇)、仲買業(一〇、一二)、合計(六九、七五)。
 おそらくこれらの商工数は、ほとんどが豊平村のものとみてよいと思われるが、古着や古道具を扱う物品販売業が目立って多い。鍛冶・馬具などの製造業も次に多く、開拓地向けの商品、運送関係の用具を扱う業種が集中しているといえる。
 これらの店が軒を並べる市街地が、三十三年五月二十日に大火に見舞われて二五三戸を焼失し、経王寺(現豊平四条三丁目)以北が一面の焼野原となった。罹災者の業種をまとめると以下のとおりであった。酒造業三、荒物商及び仲買一一、陶器業二、藥種商二、理髪床二、古物商一〇、煙草商一、小間物商二、呉服店一、飲食店八、湯屋三、旅人宿二、木賃宿一、下宿屋一、鍛冶工場八、馬具職三、菓子製造業二、大工職六、石工三、人力車乗合馬車業二、馬車追業一一、日雇業一四、雑業二一(道毎日 明33・6・1)。
 以上は一一七戸であり罹災者の半数にしか当たらないが、これをみると商業者が多い。また他に長屋住まいのものも多く、罹災者の三分の一は移転したという。豊平市街の大火からの復興はかなりの期間を要したと思われるが、この火災を契機に火防線を兼ねて道路は三間に拡張されている。