写真-4 簾舞の開発の元となった第四農場の風景(明42)
次に帝室林野管理局の御料農場が三十一年から置かれることになり、大正四年の農地面積は約六五五町五反、小作戸数は一八五戸に及んでいた(簾舞沿革志考)。また約六〇〇〇町(大正四年は五四六三町)にも達する御料林を管理する札幌出張所分担区員駐在所も置かれていた(設置は明治二十三年)。
明治四十四年の「豊平町勢要覧」から農場の墾成地の分布をみると、簾舞沢一五九町、三六戸、盤ノ沢一五五町、三七戸、定山渓二七〇町、一四戸、白井川二九町、三戸、真駒内六五町、一五戸、砥山一四九町、三五戸となっており、六一七町の墾成地、一四〇戸の小作戸数であった。
簾舞は明治三十二年は戸数四六戸、人口二五二人であったが、大正四年には一六九戸(農一五三戸、商一二戸、官吏四戸)、八四三人となる。この四年の簾舞の状況を『殖民公報』(第八八号)からうかがうと、まず簾舞は小字では野ノ沢、山ノ上、東御料地、西御料地、上砥山、下砥山、板割沢、東簾舞、西簾舞の八地域からなっていた。農地面積は畑六八三町歩、水田二二町歩あり、作物は大豆、小豆、豌豆、菜豆、麦、米などであったが、特に大豆は「簾舞大豆」と呼ばれるほどの特産品であったという。
簾舞市街には簾舞尋常小学校、郵便局、巡査駐在所、帝室林野管理局札幌出張所分担区員駐在所、札幌水力電気会社保線工夫駐在所、東北帝国大学農科大学(後の北海道帝国大学)第四農場看守所、花岡神社、説教所(長専寺簾舞説教所)などがあり、「旅館及各種商店櫛比繁栄せり」といわれる繁華な市街を形成していた。御料林からは毎年三万石余の用材を出しており、農民、労働者は副業として杣夫、運材に従事していた。