表5は、二級町村がそろった明治三十九年から大正十年まで五年おきに、人口の推移と増減の割合を示したものである。増減割合は前年(先の五年前)の割合を示したものである。これによると、まず明治三十九年当時、最も人口の多い町村は豊平町であった。すでに翌四十年には一万人を突破していた。その次に多いのが琴似村となっていたが、四〇〇〇人ほどの開きがあった。逆に少ないのは篠路村、次いで手稲村であった。豊平町が多かった原因は、豊平の市街地を抱えていたため、また篠路村が少ない原因は、篠路兵村を琴似村に変更した上で単独の一村で二級町村を形成したことにある。
表-5 諸村の人口推移(人) |
町村名 | 明39 | 明44 | 大5 | 大10 |
札幌村 | 4,620 | 5,360 | 6,065 | 6,948 |
138 | 112 | 115 | ||
篠路村 | 2,925 | 3,314 | 3,141 | 2,839 |
113 | ▼95 | ▼90 | ||
琴似村 | 6,044 | 6,531 | 5,166 | 6,268 |
108 | ▼79 | 121 | ||
手稲村 | 3,386 | 4,169 | 5,036 | 4,414 |
123 | 121 | ▼88 | ||
藻岩村 | 4,967 | 2,960 | 3,333 | 3,482 |
▼60 | 113 | 104 | ||
豊平町 | 9,567 | 6,544 | 11,093 | 11,425 |
▼68 | 170 | 103 | ||
白石村 | 4,676 | 4,558 | 5,252 | 6,103 |
▼97 | 120 | 116 |
1.下段は前年(5年前)指数。 2.『北海道戸口表』より作成。 |
豊平町の人口は、四十三年四月に札幌、藻岩、白石村とともに境界変更し、一部が札幌区に編入されるに及び激減することになる。その割合は前年(三十九年)の六八(パーセント)に達し、藻岩村に至っては六〇に及び、その影響は甚大であったといえる。しかしながら当時はいまだ〝官治〟の時代であり、町村管理の上で都市部を札幌区に編入し、農村部のみで一町村を形成する方が〝官治〟の上で得策とされ、こうした点を問題とされることはなかったのである。
しかし豊平町は境界変更後直ちに人口も回復し、大正二年には再び一万人をこえる勢いをみせ、五年以降は一万一〇〇〇人台で推移している。豊平町のその後の人口増大の原因は月寒の市街化、豊羽鉱山の開鉱と鉱山町の出現などであった。豊平町の次に人口を示すようになるところは札幌村で、大正四年に六〇〇〇人台に至り、五年には琴似村を抜いて第二位となる。九年以降は七〇〇〇人台に乗り、一番人口の増加をみせていくことになる。また白石村も大正十年から六〇〇〇人台に達し、以上の三村が大正中期に六〇〇〇人台の人口を保持していたところであったが、札幌区周辺村という特性により、主に区との隣接部が都市化することによって人口を伸ばしたものであった。
逆に人口の流失が続いていたのは篠路村であった。篠路村は村域の多くが水害地帯であり、連年に及ぶ洪水が離村者続出の原因となっていたのである。篠路村の人口流失にやっと歯止めがかかるのは大正十五年であり、石狩川の治水工事の着手によるものであった。手稲村も人口で低迷を続けていた。大正三~五年の約五〇〇〇人を最高に、その後は減少の傾向をみせていた。この二村は他町村と違い、札幌区と隔絶しており、都市化の影響を受けることは少なかった。これが人口の減少・低迷の最大の原因ともいって過言ではないだろう。都市近郊農村として札幌区との関係を深めながら発展するのが、当時の諸町村の置かれた状況であったといえる。