明治三十九年十月に北海道炭礦鉄道が国有化され、翌四十年七月に北海道鉄道会社も国有化され、北海道における鉄道国有化が完了した。一方、道内産業の発達は著しく、これに鉄道輸送力が追いつかずに各駅には滞貨が累増した。ここに北海道における鉄道車輌修理・製造工場の抜本的強化が要請されるにいたった。鉄道国有化当時には旭川、岩見沢、手宮(小樽)、函館、釧路に車輌工場があった。しかしいずれも会社線時代に造られたもので、たとえば手宮工場は敷地が狭く、岩見沢工場は炭礦会社によるため車輌工場としては不十分であった。そこで、従来の工場の拡張ではなく、道内車輌の修繕・製造を一手に行う大工場を新設するという構想が浮上したのである(野村弥三郎北海道鉄道管理局長談 北タイ 明43・5・28)。
四十年初めには鉄道院「本工場」設立が噂され、札幌村苗穂がその候補地として名乗りを上げ、札幌区会議員、札幌商業会議所議員、青木区長らが誘致運動を行っている(北タイ 明40・2・16、7・26、28)。同年後半には苗穂立地案が固まったのか、青木区長、小野札幌村長がたびたび協議し、青木区長が野村弥三郎札幌出張所長(当時)に呼び出されたりしている(北タイ 明40・9・14、16、27)。場所は苗穂地区の谷七太郎所有のぶどう園とその周辺私有地であった。この後の交渉では用地買収の価格が話合われ、札幌区による官宅敷地の寄付が約束された(北タイ 明40・11・1)。結局谷七太郎所有地一一万五五五五坪は一坪当たり八〇銭で、周辺私有地約六万坪は一坪当たり二円で買収されることになった(北タイ 明40・12・14)。
ところが、翌四十一年十月に財政緊縮を理由として、札幌工場建設が無期延期となってしまう(北タイ 明41・10・4)。しかし北海道における鉄道輸送力の問題は、新規車輌の投入のみでは解決されず、本格的な車輌修繕工場が必要であった。野村鉄道管理局長も熱心に上京、運動し、翌四十二年初頭には札幌工場建設のゴーサインが出されたのである(北タイ 明42・2・11)。これと同時に苗穂停車場もつくられることになった。かくして鉄道院札幌工場は四十二年十二月八日、札幌村大字苗穂に設立され、岩見沢工場から木工職四三人を転勤させ、客車、貨車の修繕を開始した(日本国有鉄道苗穂工場 苗穂工場五十年のあゆみ 昭36)。
施設は第一期工事として七五〇坪の木工場二棟、工場事務所、会食所に着手し、四十二年末に完成した。続いて四十四年四月に第三木工場が、大正三年には旋盤、製罐、仕上、組立工場、翌年一月には鋳物工場が開業した。また三年末に手宮工場を廃止してその職工二六〇人を移すことになり、従業員数は官吏も含めて七一三人となった(苗穂工場五十年のあゆみ)。四年六月に札幌工場を訪れた北海タイムス記者は次のように述べている。
第一に三棟に分れて居る車輌修繕工場、第二旋盤工場、第三に製鑵工場、鋳物工場、倉庫と云ふ順序で見物する。どの工場に入っても職工は側目も振らずに職務に就いて居る、工場長が入場しても敬礼をする所か、顔も向けない。何と云ふ規律の厳重さ加減よ、私は職工達の心掛けを偲んで嬉しさに堪へられない。此工場には六百五十人の職工が居るが外来者が工場に入る毎に顔を向けたり敬礼したりすれば仕事のエツフヰシエンシーは大分減って終ふ……
(北タイ 大4・6・27)
記者の近代的工場を見た感動が語られている。官吏・技師・医師を含む従業員数は大正五年に一〇九〇人、十一年には一三六九人に達した。
客貨車の新製・修繕はどうであったのだろうか。新規製造では明治四十三年に客車(御料車)一輌を製造したのを皮切りに、大正二年まで荷物車三、郵便荷物車五、三等車三輌を製造した。三年から八年には二・三等客車三、二・三等緩急車七、三等荷物車二〇、郵便荷物車一輌を製造した。貨車は大正元年から八年までに計三三輌製造した。客貨車修繕は大正十一年度に三三六〇輌に達した(苗穂工場五十年のあゆみ)。このように鉄道院札幌工場は、北海道における客貨車製造・修繕の中心としての地位を確立したのである。