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燕聯の発足

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 札幌の農産物の作付において特徴的なのは、家畜飼料としての燕麦の存在である。燕麦は、琴似、篠路村を中心に明治三十年代から作付をのばしたが、これは泥炭地という劣等地での粗放作物として適合的であり、しかも需要の拡大によって反当五円ほどの収入を期待できたためである(篠路農協三〇年史)。泥炭地を水田化してより高度に利用する段階に至っていなかったこの時期には、水田の三分の一の収入を確保できる燕麦は札幌周辺部の土地利用に適していたのである。また、技術的には札幌農学校の講師による指導も大きかったという。
 とはいえ、その拡大を支えたものは、陸軍糧秣廠による軍馬用の飼料としての購買である。明治三十五年に旭川に第七師団が設置されたことから、北海道農会は陸軍に対し飼料の大麦から燕麦への転換と産業組合などを中心とした生産者による直接供給を申し入れ、これが受け入れられて三十七年に北海道燕麦共同販売会が農会主導で組織される。これによって、従来は商人の買取りを経て納入されていた燕麦は、生産者が直接販売することが可能となったのである。そして、四十二年には雁来に陸軍糧秣廠札幌出張所が開設されて、燕麦と牧草の購入を行うこととなった。同年の主要町村別実績(七・八月分)を販売額順に示すと、札幌村二三万四〇〇〇貫、札幌区一四万六〇〇〇貫、篠路村七万一〇〇〇貫、琴似村六万三〇〇〇貫、豊平村三万七〇〇〇貫、白石村二万九〇〇〇貫であり、全体で七四万二〇〇〇貫であるが、札幌村と札幌区が圧倒的に大きいことがわかる(北タイ 明42・9・17)。
 しかし、従来流通を握っていた商人との利害対立が生じ、販売会が四十年に解散するなどの経緯があった。初年度の商人の暗躍を糾弾した『北海タイムス』の記事の一端を次に示す。
従来燕麦の売買を業となしつつありたる本道の商人は、これを以て其の商業上既得の利益を害するものとなし飽まで競争の態度を取りて、燕麦協同販売会と対抗し、必ず該会を屈服せしめて、以て其の既得の利益を保持せんとし、燕麦会が資金に潤沢ならず、又或る価格以上に買い取る能わざる事情にあるに乗じ、盛に買占めを行い、燕麦会をして、現品を得るに苦しましむの策を取りたり
(明38・1・31)

 しかし、四十四年に北海道燕麦生産代表者聯合会(以下燕聯と略)が新たに設立され、以降生産者による販売の道が確立されるのである(燕聯沿革史)。札幌での軍用燕麦の購買量は把握できないが、全道では大正期の初頭には一〇〇〇万貫水準であり、第一次大戦期には五割程度に低下するものの大正九、十年にはもとの水準にもどっている。
 牧草もまた糧秣廠の購入対象となったが、これも札幌牧草生産者聯合会が組織されて(明44)、契約栽培による一括納入が行われたが、当時の買上げ量は生産の三~四割にすぎず、残りは独占的製品工場(梱包工場)に買入れされたために価格を低く抑えられていた。この状況は、昭和四年に共同施設を設けるまで続いたという(札幌酪農協史)。