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旅順戦勝祝賀会

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 日本軍が約六万人にも及ぶ多数の死傷者を出し、一五五日を費やして攻撃した旅順は三十八年一月一日にロシア軍が降伏し、ついに日本軍が占拠するところとなった。市民が鶴首した報であり、折からの正月と重なり旅順陥落祝賀会は空前の規模で挙行された。祝賀会は一月五日に札幌区、札幌村、円山村白石村の連合にて開催され、式次第は以下の通りであった(北タイ 明38・1・5)。
一、五日午前九時を期し参列員一同大通り西五丁目の式場に参集する事。
二、午前正十時楽隊の奏楽に依り会長前進挙式を告ぐ。
三、当区官公立学校約七千名一群に旅順陥落の唱歌を合唱。
四、加藤〔寛六郎〕会長祝詞朗読。
五、加藤会長の発声にて参列員一同謹んで天皇陛下の万歳と我攻囲陸海軍の万歳を三唱。
六、加藤会長閉式を告ぐ。
七、楽隊奏楽。

 当日は式場に、「各自小国旗を手にしたる区内各小学校の生徒校旗を押立て列を作りて式場に繰り込みたるを第一に中学校、師範学校、農学校生徒、各銀行・会社の団体、区内各祭典区の仮装行列、附近村落の仮装行列続々として繰り込み来たり、満場唯だ大旗小旗の蠢(うご)めくを見るのみ」(北タイ 明38・1・7)と「歓天喜地」の喜びに沸き返っていた。そのあと、各祭典区、銀行・会社、薄野の見番などの仮装行列が市中を練り歩いた。またその夜は提灯行列が繰り広げられ、「区内戸毎の軒頭吊されたる無数の提灯は行列の提灯と相映じ、今夜の札幌は宛(さなが)ら提灯の町かと疑はれたり」。見物の兵士と行列人が万歳を合唱する風景もみられ、近村からの見物人などで市中は賑わい料理店も繁昌していた。
 正月の初売りも「人気沈静の打撃を受け頗る不振の状態」であったが、この祝賀会を契機に「市況頓に振起し昨今市内到る所、近来見ざるところの好景気」となった(北タイ 明38・1・8)。
 豊平村では豊平神社で祝賀式のあと、第二五聯隊まで提灯行列を行い、「近来稀なる盛況」(北タイ 明38・1・7)と伝えられている。各村でも盛大な祝捷会が行われた。篠路村の祝捷会は一月十一日に篠路神社で挙行されたが余興では、
神社北隅に仮設し置きたる二〇三高地より旅順市街の砲撃を開始すると同時に、或る一方より各団体より成る一団の仮装兵士は同市街に向て進軍喇叭(ラッパ)に連れ勇壮活発なる突撃を加へ、為に市街よりは火災を起したると共に之を占領したるときの如きは、一同万歳を唱へ天地に轟けり。又仮装の軍人、古代武士、剣客、決死隊、神官、号外売等千差万別にして、中には軍艦十二艘、大砲五、獅子舞、手踊、山車等あり。

とされ、「非常なる賑にて同村開闢以来未曾有の盛況を極めた」という賑いぶりであったという(北タイ 明38・1・24)。