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争議の背景

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 こうした事件の勃発した背景には、岩崎久弥が同農場を買収する以前からこの地に入植し、開墾に従事してきた小作人たちの耕作権に関する強いこだわりがあった。
 そもそも拓北農場の前身は、その所在地が字興産社である点からも推察されるように、徳島県の豪農滝本五郎らの組織する興産社が、明治十四年札幌郡篠路村に未開地二四〇万坪の払下を受け、翌十五年より郷里の徳島県を中心に募集した小作人を移住させて開墾を始めた興産社農場である。十八年からは藍作及び製藍を開始したが、不振のため三十年以降は開墾事業をその中心としていた。しかし、三十一年の石狩川大洪水などで社運は次第に傾き、三十七年東京で競売の結果、札幌区の実業家谷七太郎の「縁家」である谷仙吉が四万円で落札したのである。かくして翌三十八年より、興産社農場は谷農場と呼ばれるようになったが、当時の同農場は興産社時代に入植した徳島県出身の小作人が多く、総面積一〇〇〇余町のうち、耕作地は六五〇町であった。この間の事情を「既報」、すなわち大正九年一月二十六日付の『北海タイムス』は次のように報じている。
札幌郡篠路村の中央部に位置し千余町歩の大地積を抱擁する拓北農場篠路支場の現小作人百余戸中大部分は、明治十九年の頃株式会社興産社の募集に応じて渡道したものなるが、当時熊の棲家に等き荒蕪の地に入って開拓に従事しあらゆる辛酸を嘗め今日に至った、同農場は大半泥炭地で小作人は年貢の上納にすら苦む事が多かった。併小作人等は飽くまで不撓不屈の精神を以て専念開墾に努めてゐたが、不幸にも明治三十八年興産社は瓦解の悲境に陥り農場は谷仙吉氏の手に移り、次いで谷氏から本間氏へ本間氏から再び谷氏へと僅々数年間に幾多地主の変遷を見るに至り、其都度年貢の異動も甚だしき為に小作人は其居住に不安の念に駆られて居たが、大正元年に至って現地主岩崎家の経営する処となり屡々重役を派遣して実情を調査せしめ、小作人の陳情をも容れて年貢を寛和し小作人の愛撫に努めた為、小作人等もその徳に親み茲に漸く安堵の思ひして一同固く団結し、爾後八星霜一日の如く生産力の増進に全力を注ぎ産業組合を設け青年会を起し消防組を組織する等着々として事績を挙げつゝある(後略)


図-1 篠路支場の位置(篠路農業協同組合30年史より作成)

 この記事にも若干触れられているが、明治四十五年に岩崎久弥がこの農場を買収するまでの間、その所有権は転々としている。すなわち、興産社農場を買収した谷は、四十二年にこの農場を札幌区北三条東一丁目で米穀荒物業を営む本間国蔵に売却し、二年後の四十四年、本間は谷七太郎にこの農場を売り渡したのである。このように「僅々数年間に幾多地主の変遷」をみ、「其都度年貢の異動」も激しいために小作人たちは、「其居住に不安の念に駆られて居た」のである。