さて、烈々布の若連中は明治三十六年に青進会へ、日露戦後の三十九年には青年会へと改称された。この間地域の変化として、三十二年の北野天満宮(富山県東礪波郡)の分霊による烈々布神社の創建、若連中の夜学の開講、青年会が担い手となる私設消防組(三十六年)の創設などがあげられる。
烈々布の青年会は、日露戦後には草創期の文化や宗教に重きをおいた活動から、地方改良運動における国民統合、地域再編に組み込まれる要素がみえはじめる。
三十八年一月の旅順陥落に際して、篠路神社の祝賀会に村内各地域から山車がでるが、烈々布は「軍艦(山車ノ)ト神楽獅子舞ヲ以テ出場、全村ニ第一位ノ人気ヲ集注(ママ)」することとなる。日露戦争には青年会員の東与一郎、長谷川文蔵を送別の宴をもって送り出すが、東は翌年病死し青年会員は揃って歩兵第二五聯隊へ遺骨を迎えにゆく。全国で日清戦争の六倍以上(八万四〇〇〇人)の戦死者が出た日露戦争は、村落の身近な者の死という体験をもたらし、地域の統合を容易にした。また四十四年十二月十二日には、篠路忠魂碑除幕式が、横山重雄連隊司令官ほか篠路村の在郷軍人分会員や小学生臨席のもと盛大に行われた(北タイ 明44・12・13)が、烈々布の青年会は砂利の運搬を引受け、建設費として一二円七五銭の寄付をしている。また日露戦後には、軍事と関わって体育奨励に関わる行事が重要になるが、四十四年六月の篠路尋常小学校の運動会に(賞品として使ったのか)、青年会は雑記帳五〇冊を寄付するし、大正三年五月十七日には、烈々布村青年会主催の徒歩視察団が、小樽までの泊まりがけの「健気なる軽鞋旅行」を行った(北タイ 大3・5・19)。大正五年には烈々布少年義勇団ができていたようで、十一月二十三日には、「午前隊伍整然、中西分隊長指揮の下に札幌郡烈々布神社々前に〈国鎮め〉の喇叭を吹奏、それより青年俱楽部に於ける入営者送別会に参列、記念品を贈」ったと報じられた。
大正四年から六年頃の烈々布の青年会(会長菅原栄太郎)の概況を記した史料によると、青年会会員数は三五人になっている。そして「経営セシ事業ノ概要」として、まず1「消防組合組織」があがる。明治三十五年以来の消防団の出動回数は、烈々布の村落内、火災二回、水害二回、烈々布以外の火災その他の変災一〇回となっている。2「道路指導標建設」、3「俱楽部ノ建築」、4「篠路村忠魂碑砂利運搬」、5「会員貯蓄ノ規約」に続いて、6「体育ノ奨励」では器械体操用の鉄棒や撃剱道具を購入し、篠路村各小学校連合運動会には物品を贈った旨が記されている。7「農事視察」、8「道路ノ改修」。9「夜学ノ開催」に関わって、大正初年には『帝国青年』(大12年時一冊二〇銭)、『戦友』(同一〇銭)、『我が家』(同七銭)の三雑誌を青年会で購入していた。最後に、冬季毎月二回行われた10「藁細工ノ研究」があげられる。
かくして大正十年二月二十七日に改正された「篠路烈々布青年会々則」には、目的として、「本会ハ教育勅語及戊申詔書ノ御趣意ヲ奉戴シ、知徳ノ養成ニ勉メ、会員相互ノ親睦ヲ計リ、風紀ヲ矯正シ、農事ノ改良進歩ヲ促シ、勤倹貯蓄ヲ実行スル」を掲げるに至る。