本巻が対象とする時期(明32~大10)、現在の札幌市域に生活していたアイヌ民族の姿は、『北海道庁統計書』や『旧土人に関する調査』(大7、11)など北海道庁の公式記録では「区町村別戸口」欄に記載がないように、確認することが難しい。しかし、この時期の札幌にはアイヌ民族が生活していたのである。その一端を類型化しながら提示しておこう。
第一は札幌の官公署の雇員として働いていたケースである。真駒内種畜場では熊の出没に対処するためにアイヌ民族を雇用していた(北タイ 明43・10・1)。『北海タイムス』の記事では人数などは明らかにされていないが、このケースは複数のアイヌ民族が、それも家族単位で生活していたと考えるのが自然である。
第二は札幌の学校に入学していたケースである。有珠コタンの向井山雄は明治三十八年、函館区谷地頭のアイヌ小学校から創成高等小学校に編入し(札幌市立創成小学校学籍簿)、三十九年には立教中学校に入学した(小樽新聞 明43・5・6)。向井はその後、立教大学神学部を卒業して有珠聖公会の牧師などをつとめ、昭和二十一年からは北海道アイヌ協会理事長に就任した。ちなみに、バチェラー八重子は向井の姉である。これと関連するが、聖公会(CMS)のジョン・バチェラーがアイヌ民族への布教活動の一環として、三十二年に設立した「土人基督教徒女子塾」(アイヌ・ガールズ・ホーム)にもアイヌ民族の少女が入学していた(道毎日 明32・10・4)。ここでは一一歳以上一八歳未満の少女を寄宿させ(同前)、「祈祷」「読書」「算術」「習字」「唱歌」「裁縫」などを教授した(北海道教育週報 第二四九号)。開塾当初の生徒は四人で、「読書」では教材として『北海道用尋常小学読本』を使用していた(同前)。この教科書は明治国家への政治的・文化的統合を企図し、アイヌ民族の歴史や文化を捨象していた(竹ヶ原幸朗 北と南を結ぶ尋常小学読本 下)。ここにバチェラーの「教育」の意図が明瞭に表れている。「土人基督教徒女子塾」は三十九年に廃止されたが、バチェラーが以前、幌別村(現登別市)に設立した「愛憐学校」の系譜を引き、「未開民族の青少年のキリスト教化」(ベッケル 列国の植民地教育政策)を目的とする伝道学校に位置づけることができる。
第三は通常の生活とはニュアンスを異にするが、札幌に滞在し治療を受けていたケースである。「アイヌ施療病室」はアイヌ民族の医療機関として、二十五年にバチェラーが布教活動の一環として設立し、聖公会が財政的に支援した。四十一年に閉鎖するまでに同病室で治療を受けたアイヌ民族は二〇〇〇人を超えていた(日本聖公会北海道教区 教区九十年史)。このようにアイヌ民族の生活形態は三類型に区分できるが、ほかにも札幌区の和人男性と結婚した石狩アイヌの女性の事例(道毎日 明33・12・9)などが示すように、現在の札幌市域には少なからずアイヌ民族が隣人として生活していた。こうした事実は、札幌の歴史のなかにアイヌ民族の存在を正当に位置づけることの必要性を示唆している。