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北海道旧土人救育会の創立と小谷部全一郎

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 北海道旧土人救育会という、アイヌ民族を直接の対象とする社会事業団体の創立が、マスメディアを通して初めて伝えられたのは明治三十三年(一九〇〇)五月二十二日である。同日付の『東京朝日新聞』は「北海土人救育会の設立」と題して、次のように報じた。
土人保護法の精神に基き之を救育する事業の機関として北海道旧土人救育会なる者を設立するの計画あり。首唱者ハ近衛篤麿板垣退助島田三郎片岡健吉坪井正五郎加藤政之助小谷部全一郎の諸氏にて、来る二十六日にハ神田美土代町青年会館に於て其趣意を発表すべき演説会を催す由

 これとほぼ同内容の記事は、同じ日の『東京日日新聞』『日本』『大阪朝日新聞』などの道外紙に掲載されている。北海道では一日遅れて、翌日の『北海道毎日新聞』がその創立を「電報」欄で報じた。
 同会は、初等教育の課程を修了したアイヌ民族の青少年に「工芸、技術、農事ノ智識ヲ教へ自営自活ノ道ヲ教ユル」(会則第一条)ことを目的に、私立実業補習学校の設立を目指したわけであるが、その創立はどのような経緯をたどったのであろうか。また、その直接的な契機とはいったい何であろうか。これらの問題の検討にあたって看過できないのは、主唱者の一人であった小谷部全一郎の存在である。小谷部を抜きにして創立は考えられないし、「円山学園」の構想自体も小谷部のアメリカ留学の「成果」によって生まれたからである。
 最初に小谷部の閲歴を紹介しておこう。小谷部は明治元年に現在の秋田市で生まれ、地元の小学校卒業後、東京の原要義塾で漢学、英学、数学を修めた。十七年には「義経伝説」への関心から北海道の日高方面を調査したが、この時期やコースは不明である。その後、二十年には「土人研究の目的」(北海道教育雑誌 第一六四号)でアメリカに留学し、ハンプトン農工学校(バージニア州)とハワード大学(ワシントン特別区)で黒人とインディアンの教育制度を研究した(吉田巌 愛郷春秋)。ちなみに両校は黒人の高等教育機関であるが、多くのインディアン学生も入学していた。小谷部はまた、エール大学で神学も学んだ(同前)。

写真-16 小谷部全一郎