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「主唱者」とアイヌ民族との関連

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 同会創立の「主唱者」はいったい誰であろうか。また、なぜ「主唱者」となりえたのであろうか。最初に「主唱者」の名前である。本節の冒頭に掲げた『東京朝日新聞』の記事では、近衛篤麿(伯爵・貴族院議長・北海道協会会頭)、板垣退助(伯爵)、島田三郎(衆議院議員)、片岡健吉(衆議院議長)、坪井正五郎(東京帝国大学理科大学教授・東京人類学会会長)、加藤政之助(衆議院議員)、小谷部全一郎の七人の名前が挙げられているが、実は二人の名前が省略されている。それを完全に記した唯一の史料は、陽明文庫所蔵の『近衛篤麿日記』(明33・6・4)に綴じ込まれている「北海道旧土人救育会趣意書」である。このなかには先の七人に加えて、福岡秀猪大隈重信の名前を記している。
 次にこれら九人が「主唱者」となった理由を、アイヌ民族との関わりから検討してみよう。この点は既往の研究では見過ごしてきたが、同会の性格を考えるうえで重要なことである。近衛は、明治二十六年に発足し、当時の北海道拓殖政策の推進に重要な役割を果たした北海道協会の会頭で、前述したように島田や片岡とともに「近文アイヌ給与地問題」ではアイヌ民族を支援した。加藤は第五帝国議会に単独で「北海道土人保護法案」を提出したように、以前からアイヌ問題への関心が高かった人物で、「北海道土人保護法案に就て」(立憲改進党々報 第二二号)と題する文章も残している。近衛、島田、片岡それに加藤も第一三帝国議会での「北海道旧土人保護法」の審議に加わっている。大隈は同法を政府案として帝国議会に上程した時の総理大臣であり、同じく板垣はそれを所管する内務大臣であった。坪井は人類学者として早くからアイヌ研究に関わり、コロポックル論争の一方の当事者であった(寺田和夫 日本の人類学)。福岡はその経歴も含め、「白耳義国政治学博士」以外のことは不明である。
 こうして「主唱者」とアイヌ民族との関わりを探ってみると、それは福岡を除き、いずれも同会の創立までにそれぞれの立場で、アイヌ民族との関わりを有するだけではなく、当時のアイヌ民族の境遇に対して一定の「理解」を示していた人物であったことが浮かび上がってくる。