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すまいの思想

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 明治四十二年三月一日を期して実施された札幌区区勢調査で、札幌区の住宅事情が次のように明らかにされた。
  持地持家   三九七戸   三・五三パーセント
  持地借家     一戸   〇・〇一パーセント
  借地持家  一六五三戸  一四・六八パーセント
  借地借家  九二〇八戸  八一・七八パーセント
 これによってもわかるとおり、札幌区の持家率は借地を含めても約一八パーセントときわめて低いことがわかる。区勢調査にあたった高岡熊雄の『札幌区区勢調査研究』によれば、この原因として、区民の永住する者比較的少数で、常に新旧交代し、区民の出入りが頻繁であること、また土地分配が公平でなく、少数の地主が市中の大地積を占有しているからと指摘した。明治初年開拓使が札幌区に都市計画を開始した時点では、「土地割渡」と「家作料貸与」を積極的に進めたが、明治末に行われた区勢調査で、札幌区の土地政策、住宅政策の不均衡さを露呈したといえる。
 四十二年の区勢調査にあらわれた住宅事情を、区制施行直後の実態で詳しくみてみよう。
 まず三十四年四月の区税の戸数割改正により、借家主でなしに家主の賦課としたため、貸家の多い家主は家賃の引き上げに踏み切った。実際、南三条通や南五条通の借家は三、四割も引き上げられ、借家人の不満をかった(道毎日 明34・4・18)。この戸数割改正とは、従来居住者一戸当たり五八銭九厘五毛ずつ徴集したものを、一等地四〇銭四厘五毛から二〇等地八〇厘九朱までに分けて家主に賦課するものであった(道毎日 明34・6・19)。おまけに、区制施行以降の戸口数の増加は著しく、自然増と移住者の増加により、三十三年(四万三一〇三人、七六五六戸)を一〇〇とすれば、三十六年(五万五九五六人、九一〇九戸)は人口で一二九・八、戸数で一一八・九の指数を示した(北タイ 明37・2・4)。こうした戸口数の急激な増加は住宅の不足を招き、地主・家主にともすれば地代・家賃の不当引き上げを行わせる機会を与えた。
 このため三十四年十二月、地代・家賃の不当引き上げに反対し、地主・家主に反省をうながそうと札幌道徳会が発足、創立趣意書中の規則でそれを高らかに宣言した(北タイ 明34・12・17)。
 実際、三十五年中には道徳会事務所内で貸間・貸家案内業を開始したり(北タイ 明35・7・10)、区有地賃貸料値上に対し借地人四十数人が区役所に引き下げを願い出た(北タイ 明35・7・13)。また、三十六年には中野時計店借地料訴訟問題が起こった。月一坪当たり二一銭余で建部旅店より土地を賃借していたところ、不燃物家屋新築後貸主が一方的に一坪当たり七五銭への引き上げを通告したためである。裁判所で土地鑑定人を通して鑑定した結果、札幌の最上等地と見積って、時価に年一割の利息とすべての公課を加えて、月一坪当たり三一銭五厘が妥当と判決を下したが、借地人はなお不服と函館控訴院に上告、札幌の高い借地料の適正化のためにあくまで闘う姿勢をみせた(北タイ 明36・8・5、8・12)。
 その後道徳会では、札幌の借地・借家料の適正化のため、東京以北七都市の例を調査し標準価格を決める方向に出た(北タイ 明36・10・20)。一方、札幌商業俱楽府でも三十七年五月、札幌が全国無比の高借地・高借家料であることから、区の衰退を来たす恐れがあるので適正価格まで引き下げられたいとの勧告状を、地主・家主に配布することに決した(北タイ 明37・5・4)。
 道徳会は、日露戦争後の四十年再び活動を再開、「地代家賃引上反対大演説会」を開き、弁士の伊東正三、竹内余所次郎東武阿部宇之八等が熱弁をふるった(北タイ 明40・4・5)。また同年の「地代家賃引上反対区民大会」では、「我札幌区の地主家主中には不当の賃貸料を貪るものあり。為に一般借地借家人に困難を与へ本区の繁栄を阻害する事多大なるを以て吾人は之を矯正せんことを決議す」と決議文を発表した(北タイ 明40・4・22)。同時期に『北海タイムス』紙上では「地賃家賃引上問題見聞録」を八回にわたって連載し、不当な高借地料・高借家料の暴利を貪る地主たちを名指しで糾弾した。同年十月、区民大会の決議文をもとに札幌区地代家賃引上反対同盟会が組織された(北タイ 明40・10・31)が、地主たちは反省の色を示さなかった。
 四十二年六月十七日の『北海タイムス』によれば、大阪の千日前の月一坪当たり地代八五銭に対し、東京銀座のそれは七〇銭、それに比べ札幌の一等地の地代は五五銭ときわめて高いことが明らかにされた。札幌の地代が高い理由として、売買価格が実価格の二倍で取引されたり、不景気時の空家の増加による地主の損失を回避するため地代がつり上がったままといった、他府県と異なった背景にもよっていた。住宅問題の解消は、大正に入ってからの区営住宅の建設や住宅組合の設置を待たねばならない。
 それとともに、この時期に議論された問題に「屋上制限」、すなわち屋根を不燃物トタン葺に葺替えて行こうといった問題がある。三十七年六月の屋上制限に関する庁令がそれである。しかし、札幌の人びとの経済的理由等で、実行に移されたのは大正六年以降からである。