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貧民救済施設

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 毎年暮れ近くになると新聞記者が探訪して実況する「貧民窟」探訪は、読者が次第に反応を示しはじめた。明治四十三年十二月の記事「札幌の貧民窟」を読んだ寿都郡寿都町の僧侶と、当区南七条東一丁目の布教師小馬谷寿(こうまやひさし)ほか一名の僧侶は、細民救済を相談して一時的金品恵与よりは彼らに適当な職業と資本をとの判断にいたり、貯金一七〇円を出資して、十二月二十六日薄野遊廓付近に「貧民救済所」の看板を掲げた。この民間の救済施設では、十数人の細民に慈善餅、藁餅を製造させて販売させ、売上高の二割を恵与し、その他米・味噌や日用品を貸与した(北タイ 明44・1・8)。救済所を開設して以来、三八日間で救済した細民は、家族ともに五四人(うち慈善家に雇われた者大人一一人、子供六人、仕事に就いた者大人八人、子供一九人、目下無業のため救済所に宿泊の者大人四人、子供六人)であった。しかし、義援物資や、救済所で働く細民の収入や慈善家よりの寄贈を合わせても不足額は四〇円余にものぼるのだった(北タイ 明44・2・2)。
 救済所では、慈善煎餅や果実・鶏卵の類を活動写真館、各公私立病院で売捌く許可を得、事業を拡大させていった(北タイ 明44・3・15)。四十四年三月末までに、無料宿泊・食料給与の延べ人員三五一人(男一一二人、女一四一人)、家族持の細民救助延べ人員六一二人(男女不詳)にのぼった。また、無料で施療・施薬を申し出る私立病院もあらわれ、延べ一三人が治療を受けた(北タイ 明44・4・15)。やがて同年七月社団法人に組織替えとなった。
 四十四年頃の米価の急激な高騰は、都市細民の問題をさらに浮き彫りにした。細民は、安定した収入の職につけないばかりか、幼児を抱えた寡婦、病気や老齢のため働くことのできない人びとを多く抱えていた。全国的にこれら細民を救助する組織が活動しはじめていた。
 札幌区では、四十四年七月、区長が率先して有志を区役所に招き、細民救助のための済生会活動をおこし、寄付を依頼した。当会は施療・施薬をおもにするもので、折から皇太子の行啓があり、札幌区慈善事業のために二〇〇〇円の下付を受け、これが恩賜財団済生会のもととなった。済生会の救療開始は大正元年八月末からで、区立病院、北辰病院、逸見病院の三カ所を救療所に嘱託し、施療・施薬を行った(札幌区事務報告)。大正三年以降、済生会の患者数は増加の一途をたどり、運営は同会寄付払込者の肩にかかっていた(北タイ 大3・6・9)。
 ところで豊平郵便局後方の細民街は、学校に行けない多くの子弟を抱えていた。大正五年春、大谷派仏教青年会では、豊平町湯殿山児童訓育所を設立して細民子弟に教育を開始したところ好結果が得られたので、豊平町水車通に七〇〇円の予算で校舎を新築、六年九月落成式を挙行した(北タイ 大6・9・11)。校舎新築のために、六三〇余円の寄付を仰ぐとともに空瓶集めに奔走した。七年三月には、最初の卒業生一人を送り出し、一一人が在籍していた(北タイ 大7・3・26)。
 やがて豊平郵便局後方、すなわち豊平町二~一〇番地の裏に居住する人びと、さらに南三、四条東五丁目にあたる豊平橋の袂に居住する人びとは、九年四月、自らすすんで生活向上・居住地の改善を図るのを目的に豊平共済会を設立した。同会は毎月講演会を開催して、衛生、火防、職業等すべて生活の向上に関する講話を聞き、平常の事業としては、病気の際の無料施療、葬式の際の僧侶の読経、失業者に対する職業紹介、不就学児童への簡易教育を施すこと、不良児童の感化等が目論まれた(北タイ 大9・4・20)。こうして細民たちが自助努力の方向を模索しはじめた。