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大審院判決と自由廃業

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 明治三十三年(一九〇〇)二月二十三日、大審院は函館の娼妓坂井フタの廃業訴訟に、「貸座敷営業者ト娼妓トノ間ニ於ケル金銭貸借上ノ契約ト身体ヲ拘束スルヲ目的トスル契約トハ各自独立ニシテ身体ノ拘束ヲ目的トスル契約ハ無効ナリ」と、自由廃業を認める新判決を下し、坂井フタは勝訴した(日本婦人問題資料集成 第一巻人権)。これを受けて救世軍山室軍平等は、同年八月から娼妓自由廃業を唱えて運動を開始し、自由廃業の気運が全国的に高まった。札幌の貸座敷営業者たちは、自由廃業防止の先手を打つために薄野貸座敷組合の臨時総会を開いたりしたが(道毎日 明33・8・28)、九月ついに自由廃業第一号として、北海楼の金田ノブが廃業を名乗りでた(道毎日 明33・9・15)。
 娼妓自由廃業を法律で保障したのが、同年十月二日の内務省令第四四号の「娼妓取締規則」である。この規則第五条では、「娼妓名簿削除ノ申請ハ書面又ハ口頭ヲ以テスヘシ」とし、その申請も本人出頭のほか警察署が本人出頭不可能の理由を認めた場合に限り、申請書(廃業届)を郵送または他人に託して差し出すことが可能とされた。また、これにより一八歳未満の者の娼妓となることを禁止した(同前)。この規則により娼妓の廃業が簡易化し、自由廃業が認可されることとなり、娼妓の廃業が全国的に広がった。北海道でも三十二年に二三七四人にのぼった娼妓が、三十四年には一八六六人となり、約二三パーセントの減少となって現れた(北海道庁統計書)。一方札幌の薄野遊廓においても、三十三年八月に三七九人いた娼妓が、三十四年五月には二二五人となり、約四一パーセントの減少ぶりを示した。娼妓の廃業は表11でみるとおり、三十四・三十五年中がピークで、三十五年末にはやや持ちなおしているのがわかる。この背景には、三十三年の大審院判決では娼妓の年季と負債とを区別したのに対し、三十五年二月の名古屋の大熊キン裁判では、楼主への負債は返済の義務ありとの判決が下り、娼妓の廃業は自由だが前借金は返済しなくてはならぬという判例が確立し、自由廃業への障害が生まれたことも事実である(日本婦人問題資料集成 第一巻人権)。
表-11 自由廃業による貸座敷・娼妓数の変遷
年月貸座敷数娼妓
明33. 843軒379人
34. 539225
34. 639241
34. 739238
35. 238244
35.1246299
36.1241303
明33.8~34.7は『道毎日』,35.2は『北タイ』,35.12以降は『北海道庁統計書』によった。