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防疫態勢

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 明治前半に官が必死に撲滅をはかった痘瘡は、毎年春・秋の種痘の実施によりある程度成果があがってきた。この時期はコレラや痘瘡にかわって猛威をふるうようになった各種伝染病対策として、区立札幌病院や隔離病舎円山病院の拡充と、発生に対して区内衛生組合を通して清潔法の施行、消毒の徹底に重点がおかれていた。ことに腸チフスや赤痢患者発生においては、飲料水の不良によるものが多く、上下水道の敷設が近い将来必然性を増してくることが予想された。
 区立札幌病院は、明治四十三年外来患者一二万六〇三五人(延べ)、入院患者六万六一六四人を数えたが、大正十一年には外来患者一三万二六二三人、入院患者六万一五四七人を数えた。九年三月の火災により一四棟一四七七坪を焼失しており、その完全復興は十二年以降であった。九年焼失前の設備は、明治四十年に結核病室、眼科診療室が新築され、円山に精神病棟が移築された。大正六年には看護婦寄宿舎、職員食堂、宿直室、眼科手術室、耳鼻咽喉科診察室が増築され、病棟一棟が落成し、充実してきていた。医師・看護婦も六年末に医師三一人、看護婦も助手を加え九二人となっていた(市立病院九十年史)。
 病院数も明治四十二年では官公・私立病院は一六にすぎなかったが、大正十一年には官公・私立合わせて五四の病院が開業し、区内医師・産婆・看護婦数も表28のごとく年々数を増していた(札幌区統計一班、札幌市統計一班)。
表-28 札幌区 医師・産婆・看護婦数
医 師産 婆看護婦
明4058人68人60人
 416780105
 42808784
 4389109102
 4491114129
大 199121114
  2104127108
  3102105114
  412581107
  5147101100
  6150111153
  7186122162
  8168107131
  9148145159
 10158175184
 11257201158
札幌区統計一班』『札幌市統計一班』より作成。

 衛生組合は、市史第二巻にも記したように、明治三十一年道庁令「衛生組合設置規程」の公布に基づき、三十二年四月一日をもって札幌区内に組織された。最初一六の組合が組織され、組長・副組長・伍長が選挙によっておかれ、組合の運営にあたった。とくに通常時における清潔法の施行、衛生思想の普及につとめるのが大きな任務であった。明治四十一年衛生組合規約を改正し、新たに聯合衛生組合規約を設定し、四十二年六月衛生組合を統轄する聯合衛生組合を組織、伝染病予防消毒や一般衛生事務を幇助した。四十三年山鼻ほか四カ町の区内編入により三組合を増設して一九組合となった。大正四年戸数増加にともないさらに二四組合となり、十一年市制施行以降二九組合に増加した。
 衛生組合は、聯合衛生組合設立以前は各戸より組合費を徴収して、これをもって経営にあたってきたが、四十三年度より札幌区が三三〇〇円を聯合衛生組合に補助、伝染病予防・消毒、春・秋二期種痘、清潔法に関する一切を担当することとし、衛生組合は、種痘、清潔法の通知、立合のみを引き受けることとした(北タイ 明43・2・6)。聯合衛生組合が四十四年の伝染病発生時に井水試験を実施したところ、半数が飲料に適さないことが判明した。また、細民居住地に無料浴場を設置したり、隔離患者中困窮者に対しては食料の給与も行った。トラホーム発生にあたっては衛生組合単位で検診し、地域住民の健康維持のため防疫上尽力した。さらに聯合衛生組合では、衛生講話や衛生展覧会を開催するなど、区の援助のもとに防疫保健、衛生知識の普及、水害の場合浸水区域の消毒の実施を行った(札幌区事務報告)。なお大正九年度より、衛生組合の経費は再び各組合の賦課によることにした。
 清潔法は春・秋二回札幌区長名で発せられるもので、四月と十一月、清潔を保ち未然に悪疫防止のために衛生組合を単位に各組合員が総出で実行するようになっていた。内容は、溝渠下水浚渫、便所の汲取、井水清掃、一般家屋内・伝染病罹患者家屋の厳重清掃、塵芥捨場の指定となっており、衛生組合長の責任において実行され、巡査や臨検吏員の検査を受けた。