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活動写真等

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 札幌に活動写真が入ってきたのは明治中期であったが、大衆娯楽の一つとしてその地位をゆるぎない確固たるものとさせたのは明治末から大正にかけてであろう。
 まず札幌の活動写真、すなわち映画の歴史で記念すべきことが起きたのは、映画常設館の登場である。函館、旭川に先を越されたが、明治四十五年三月十四日、札幌狸小路の開進亭を買い取って改装し、第二神田館と名付けて開場した。経営者は、大通西三丁目で理髪店神田床を経営し、旭川に移って映画常設館神田館を建てた佐藤市太郎だった。しかし、この札幌の第二神田館はあくまでも仮のもので設備も悪かったらしい。そこで次に狸小路四丁目で本格的映画館づくりに乗り出し、同年(大正元年)十一月二十一日、旧館を閉めて新館の神田館をオープンさせた(北海道映画興行銘鑑)。
 映画全盛期に入り、既設の札幌館も常設館となった。大正二年にはエンゼル館(北二西三)が建てられ、このほか大正初期に大正館(北二東二)、北都館(北九西一)、ルナパーク(狸小路一、今の帝国座)、中央館(南三西二、のち中劇)など新しい劇場が建っているが、詳細は不明の館が多いという(札幌と映画 さっぽろ文庫49)。

写真-24 エンゼル館(北2西3)

 八年三月には神田館田中市太郎ほか十数人の発起により、道庁および各官庁の映画ファンによって「キ子マ同志会」が誕生したり(北タイ 大8・3・10)、札幌の映画人口は増加傾向にあったようである。当時日本もののみならず洋ものもかなり上映され、それぞれ専属の弁士がおり、日本ものを弁士、洋もの専門を説明者と呼んだ。ちなみに八年の盆に札幌の劇場のおもな興行を表33に掲げる。
表-33 大正8年札幌の盆興行
劇場興行名
錦座第二ラヂウムの大秘密4巻,オラカリウム嬢疑惑の下に5巻。
第一神田館米国パテー支社作連続活劇電光石火1・2篇5巻,日活会社傑作旧劇ニコニコ弥次喜多東海道逆戻り続篇7巻,滑稽ロイトの亭主戦。
エンゼル館人情劇恐怖に駆られて全5巻,連続活劇虎の足跡1・2篇5巻,喜劇チャプリンのローマンス等。
第二神田館日活会社新派支那劇西廂記6巻,連続トラルー3巻,旧劇赤壁明神3巻。
遊楽館新派潮来双思5巻,女の願4巻,旧劇飛騨の怪猫6巻。
中央館旧劇八百屋お七5巻,真田大助4巻,新派伊達芸妓5巻。
札幌館新派活動連鎖劇堀江四郎一行俠艶録5場。
『北タイ』(大8.8.14)より。

 活動写真は七年の道博において、北海道の現状を東京の天然色活動写真株式会社に撮影委託して会期中に上映したり、産業共進会や拓殖博覧会には道内紹介映画として大いに活用されてもいる。
 ちなみに当時の映画館の観覧数の推移をみると次のようであった。
大正七年 六館 大人五四万七二八五人 小人 九万二二六〇人 計六三万九五四五人
(北タイ 大8・1・31)
大正九年 八館 大人五八万六七四〇人 小人一〇万三四五〇人 計六九万〇一九〇人
(北タイ 大10・2・27)

 このように映画は押しも押されぬ大衆娯楽となった。映画人口の増加とともに、映画館の風紀上・衛生上の問題も浮上してきた。このため男女別席にしたり、流行性感冒予防のためにマスクの励行までうながされた。
 また、映画と同様に浅草オペラも大正三年九月札幌にやってきた。札幌大黒座では九月十日と十一日の二日間にわたり当時有名な松井須磨子の「カチューシャの歌」が上演された(北タイ 大3・9・13)。