文部省の『北海道用尋常小学読本』の編纂事業は、明治二十六年七月の北海道庁から文相・井上毅への「請嘱」に基づいてスタートするが、その背景には北海道で採択していた高橋熊太郎編『普通読本』をめぐる大きな問題が存在していた。『普通読本』は辻敬之・西村正三郎編『尋常小学読本』と並んで、検定制初期に民間で出版された代表的な読書科教科書であるが、北海道には不適当な教材が多いなどの理由で教員たちから盛んに批判を浴び、「已に普通読本死せり」(北海道教育週報 第四号)という事態に陥っていた。北海道庁はこれに代わる教科書として『北海道用尋常小学読本』の編纂を井上毅に「請嘱」したのである。井上毅が「請嘱」に同意した理由は後述する。
文部省は同読本の編纂費を二十九年度予算に計上し、年度当初から編纂体制の検討を進め、北海道内務部地理課長や北海道教育会会長などを歴任した拓殖務書記官・白仁武が主任となり、北海道内の小学校長とともに編纂に当たらせることを決定した(東京朝日新聞 明29・5・2)。北海道庁はこの決定に基づいて二十九年五月、村岡素一郎(根室郡花咲尋常高等小学校長)、室原啓造(小樽区量徳尋常高等小学校長)、得丸迅能(札幌区創成尋常高等小学校訓導)を文部省に派遣した。文部省での編纂作業は順調に進み、同年七月下旬には「北海道の教科書は已に大体に於て脱稿」(東京日日新聞 明29・7・22)の運びとなった。同読本は二十九年九月の文部省の図書編纂審査委員会による審査を経て、北海道庁は三十年二月に特例措置によって、読書科教科書として採択することを決定した(北海道教育週報 第一二九号)。同読本の巻一・二は三十年四月、巻三~七は三十一年四月、巻八は同年後期からそれぞれ使用を開始した。
このようにきわめて短期間で、全八巻の同読本を脱稿にこぎつけることができたのは、全教材を新たに書き下ろすのではなく、一部の教材を底本とした文部省編『読書入門』(明19)と同編『尋常小学読本』(明20)から借用し、それを改訂するという編纂方法を採用したからである。同読本は天皇制国家の精神的支柱としての「教育勅語」の理念を踏まえ、尋常小学校課程修了後、直ちに社会生活を営むことを前提に教科内容を編成した「第二次小学校令」(明23)と「小学校教則大綱」(明24)に基づいて編纂された。教材内容にもそれが反映され、「洗たく」(巻三第九課)、「衣服」(巻四第二一課)、「勤勉と倹約」(巻五第一六課)、「国民ノ重ンズベキ義務」(巻八第二七課)、「勅語奉答」(巻四第二四課)、「天長節」(巻四第七課)など実用的な知識・技能と道徳教育を重視するそれを盛り込んだ。『沖縄県尋常小学読本』の場合も全く同様である。
「北海道用」という行政区画名を冠した同読本の最大の特色は、収録教材の地域性=地域教材に求めることができる。地域教材は教材化の方法の違いによって二通りに区分できる。第一は北海道を軸にその周辺地域の固有の事象を素材とした新規教材である(表3)。当該教材の一部を紹介しておこう。「林檎」(巻三第一八課)、「冬のあそび」(巻四第一四課)、「札幌神社」(巻五第一一課)、「移住者ノ話」(巻六第三課)、「カバフト」(巻七第二二課)、「ウラジオストック」(巻八第六課)。この他、単語に挿画を付した「シカ/クマ」(巻一第五課)、「タラ/サケ/マス」(巻一第八課)もこれに該当する。地域教材の記述例として、「札幌神社」の全文を掲げておこう。
毎年六月十五日ニハ、北海道ノ小学校、皆其業ヲ休ム、コレハ、札幌神社ノ祭日ナルガ故ナリ。札幌神社ハ、札幌ノ西ノ方、マルヤマ村ニアリ、明治四年六月、コヽニ社ヲ建テヽ、オホクニダマノ神、オホナムチノ神、スクナビコナノ神ノ三神ヲマツリ、国幣小社ニ列セラレシガ、明治二十六年十一月、官幣中社ニノボセラレタリ。此三柱ノ神ハ、我国開拓ノ神ナレバ、毎年一度、大祭ヲ行ヒ、イハヒ奉ルナリ。見ヨ、生徒ノ一タイハ、教師ノガウレイニ従ヒ、社前ニ進ミテ、拝礼ヲ行ハントス。彼等ハ何処ノ生徒ナラン、コレハ札幌区内ノ生徒ナルベシ。
第二は主題が全く異なる教材の一部に北海道に関する事象を加筆したものである(表3)。ここでも記述例を紹介しておこう。「稲は多く田に作るものにして、はじめて北海道に、うゑつけしは、今よりおよそ、四十余年前なり」(「米」・巻四第一課)、「今日は吹雪甚しく、路は雪に埋もれて、馬橇のあとも見えず、往来の人々は、皆早く家に帰らんとて急げり。あはれげなる、一人の老人、吹雪になやみ、杖をたよりに歩みしが、あやまりて雪の中に倒れたり」(「少女老人を助けく」・巻六第一三課)。このほか、挿画中に「北海屋」(巻一第十五課)の暖簾(写真4)や、「北海尋常小学校」(巻二第一五課)の校旗を描き、北海道を強調した教材もある。
表-3 『北海道用尋常小学読本』の地域教材 |
○シカ/クマ(巻1-5) ○タラ/サケ/マス(巻1-8) ◇「北海屋」(巻1-15) ○ソリ(巻1-16) ○トドマツ(巻1-9) ◇「北海尋常小学校」(巻2-15) ◇フブキ/ユキ(巻2-25) ○くま/さけ(巻2-28) ◇あさ日(巻3-1) ◇方位(巻3-3) ◇にはのさうぢ(巻3-4) ○鰊(巻3-7) ◇川(巻3-8) ○妻(巻3-17) ○林檎(巻3-18) ◇米(巻4-1) ◇四季(巻4-3) ○石狩川(巻4-4) ○鮭(巻4-5) ○冬の日一(巻4-8) ○冬の日二(巻4-9) ○冬のあそび(巻4-14) | ○熊トラッコ(巻4-16) ◇馬(巻4-17) ○石炭(巻4-19) ○重ナル樹木(巻4-20) ◇衣服(巻4-21) ◇鯨(巻4-23) ◇桜(巻5-2) ◇養蚕(巻5-3) ○水産会(巻5-4) ◇麻と亜麻(巻5-5) ◇夏の夕べ(巻5-10) ○札幌神社(巻5-11) ○武田信弘一(巻5-12) ○武田信弘二(巻5-13) ◇砂糖(巻5-14) ◇肥料(巻5-15) ○高田屋嘉兵衛一(巻5-19) ○高田屋嘉兵衛二(巻5-20) ◇航海一(巻5-21) ◇航海二(巻5-22) ◇我国(巻5-24) ○北海道(巻6-2) | ○移住者ノ話(巻6-3) ○もんべつ村(巻6-4) ◇牧畜(巻6-10) ◇羊(巻6-11) ◇少女老人を助く(巻6-13) ○寒気に慣れよ(巻6-14) ○間宮林蔵(巻6-15) ◇商船(巻7-3) ◇産物の販路(巻7-4) ○手紙(巻7-8) ◇五港(巻7-20) ○カバフト(巻7-22) ◇軍艦(巻7-24) ○一村の団結(巻7-25) ◇地球(巻8-1) ◇外国(巻8-3) ○ウラジオストック(巻8-6) ◇会社(巻8-7) ◇商業(巻8-16) ◇遠洋漁業の歌(巻8-17) ◇家屋の建築(巻8-23) ◇国民ノ重ンズベキ義務(巻8-27) |
1.教材は左より巻数(課数)順に配列した。 2.教材名は「初版」目次のそれを採用した。 3.カッコ内は該当する巻,課を示している。 4.○…北海道とその周辺地域固有の事象を素材とした新規教材, ◇…主題が異なる教材の一部に北海道に関する事象を加筆したもの。 5.カギカッコを付した教材は本文ではなく,挿画中に表記があることを示している。 |
この図版・写真等は、著作権の保護期間中であるか、 著作権の確認が済んでいないため掲載しておりません。 |
写真-4 『北海道用尋常小学読本』第1巻15課 |
それでは、文相・井上毅はなぜ北海道庁の「請嘱」に同意し、編纂に着手したのであろうか。一定の理由が存在するはずである。それは端的にいって、井上の当時の北海道(沖縄県)に対する教育認識の問題と深く関わっている。井上のそうした教育認識のありようは「小学教育補助法案」構想のなかに表現されている。同法案の一つである「小学教育補助法ノ要項」は、毎年小学校教育の国庫補助金として一〇〇万円を、尋常小学校正教員の年功加俸や町村立小学校の校舎建築費などに充当しようとするものである。そのなかで北海道(沖縄県)への国庫補助金の配布率を他府県の二倍とすることを規定した。その理由として、北海道と沖縄県は「我国南北ノ関門」であるので、「最モ力ヲ国民教育ニ尽スノ必要アリ」と述べた。
このように軍事的視点から北海道と沖縄県を近代日本のなかに位置づけ、それを確固たるものにするには教育の「推進」が重要な意味を持つことを指摘する。井上のこうした認識の背景には北海道と沖縄県ではそれぞれ歴史的、社会的条件は異にするが、いずれも小学校や教員の不足も相俟って、表4が示すように学齢児童の就学率も低いという共通の問題が内在し、それらの地域の理想の教育の姿とはほど遠い現実が存在していた。井上は「我国南北ノ関門」としての北海道と沖縄県の教育の「推進」に実に大きな関心を払い、それを教育政策を通して実現しようと試みたといえる。北海道庁からの「請嘱」はそうした教育政策のなかに矛盾することなく位置づくもので、井上にとっては異議を唱える理由は全く存在しなかった。しかし、同読本の編纂事業は明治二十七年八月の井上の文相辞任に加えて、それとほぼ同時の日清戦争の開始によって中断を余儀なくされた。
表-4 北海道・沖縄県の就学率の推移 |
年 | 北海道 | 沖縄県 | 全国平均 |
明24 | 49.72% | 14.91% | 50.31% |
25 | 50.60 | 17.27 | 55.14 |
26 | 54.49 | 19.90 | 58.73 |
27 | 54.37 | 22.04 | 61.72 |
28 | 50.72 | 24.16 | 61.24 |
29 | 51.85 | 31.15 | 64.22 |
30 | 48.68 | 36.79 | 66.65 |
1.調査日は各年次とも12月末日現在。 2.『文部省年報』第19~25年報(文部大臣官房文書課,明25~31)より作成。 |
文部省が同読本の編纂事業に再度着手したのは二十九年五月である。その背景には、日清戦争後の日本の軍事問題を軸とする政治上の諸問題が存在していた。教育の問題も「教育ある国民を軍隊に供給するは即ち普通教育の任たり」(教育報知 第四八七号)と考えられ、軍事体制を根底から支えるものとして、相互に密接な関連を有していた。明治政府は日清戦争後、「臥薪嘗胆」を合言葉に対ロシアとの戦争を念頭に置きながら軍備増強政策を展開していった。こうしたなかで、軍事的拠点としての北海道の役割はそれまで以上に増大し、徴兵令の石狩国など四カ国への施行(明29・1・1)、陸軍第七師団の設置(明29・5)など、それに見合う軍事的基盤の充実を図る諸政策を実施した。沖縄県でも師範学校卒業の小学校教員に六週間の兵役義務を課した。同読本の編纂事業の再開は、こうした日清戦争後の北海道と沖縄県の軍事体制の整備問題とは決して無関係ではない。編纂事業は巨視的にはロシアとの戦争を、微視的には北海道と沖縄県への徴兵令の施行を念頭に置いて進められ、両地の民衆の国防意識の醸成を意図し、軍備増強策の一環として編纂されたといえよう。
それを象徴するように「桃太郎」(巻三第一九・二〇・二一課)、「兵士」(巻三第二三課)、「馬」(巻四第一七課)、「神武天皇」(巻五第一課)、「日本武尊」(巻六第八課)、「元冠」(巻七第二三課)、「軍艦」(巻七第二四課)、「豊臣秀吉」(巻八第一二課)、「日清戦争」(巻八第一三課)など多数の軍事教材が含まれている。『沖縄県用尋常小学読本』の場合も同様である。このような軍事教材は日清戦争後、初等教育課程における軍事教育の重要性が叫ばれるなかで、その格好の教材として小学生が「兵士となり、有事の日に際して、奉公の実を挙け」(教育時論 第四〇〇号)るための大きな「期待」を担っていたといえよう。
北海道と沖縄県は「我国南北ノ関門」として軍事上の最重要拠点であった。沖縄県の場合は日清戦争後、その役割を台湾が担い軍事上の役割は相対的に下落したが、北海道はロシア、沖縄県は清国と境界を接し、また、歴史的な経緯もあり、それぞれの土地に居住する人々の動向によっては日本の軍事上の明暗を分ける重大問題に発展する可能性をはらんでいた。当時の北海道は、先住民族であるアイヌ民族と生活習慣・民度が均一でない他府県からの移住者が混住し、沖縄県は明治十二年の琉球処分後も清国の強い影響下にあったように、他府県と比較して異質な政治的・文化的要素を内在していた。こうした異質性は対ロシアとの戦争を念頭に置き、天皇を中心とした中央集権的国家体制の確立を目指していた明治政府にとっては、北海道はもとより、沖縄県に内在するそれを排除し、政治的にも文化的にも統合するための政策を講じる必要に迫られていた。
同読本はそのための手段として編纂され、そうした政策を浸透させるうえで重要な役割を担っていたといえよう。地域性を強調する一方で、アイヌ文化や沖縄県の言語や風俗習慣という基層文化の存在を否定したことはその証左であろう。当時の日本の教育界のなかで北海道や沖縄県などをその対象とし、「国家の統一、国土の防衛等より観察するときは(中略)内地教育に比して、幾分か其方針と方案とを異にせさるを得ず。(中略)北海道には、北海道に適すべき教育を施さゝる可からず。琉球には、琉球に適すべき教育を施さゞる可からず」(教育時論 第四〇四号)という「辺島教育論」が大きな位置を占めていた。『北海道用尋常小学読本』はまさにこの趣旨を体現したもので、日清戦争後の北海道の小学生の軍事的・文化的「教化」を企図としていたといえよう。しかし、それも日露戦争の最中である三十八年三月にはその役割を終え、同年四月からは他府県と同様に第一期国定教科書の『尋常小学読本』を採択し、教材内容の上では平準化した。