ビューア該当ページ

札幌興風会の結成

770 ~ 772 / 915ページ
 短歌結社については、明治二十年代に白野札幌神社宮司らによって札幌和歌会が結成されたことが知られている程度で、俳句に比して活動は活発とはいえなかったようであるが、三十年代においてもこの傾向は続いた。今のところ『北海タイムス』明治三十七年二月二日付に「敷島会」のタイトルで、辻虚庵発起の同会に続々入会者があり近日会則を定めるとあり、間もなく結成されたとみられる。同年七月から三十八年にかけて、鉄道唱歌などで知られている大和田建樹が五回来札し、初音会、敷島会を指導しており(札幌の短歌 さっぽろ文庫9)、この時期はほぼこの二つだったと思われる。
 四十年一月十二日には札幌興風会が結成されて第一回の歌会を開催した(北タイ 明40・1・16)。同会はさきに札幌和歌会に尽力した村井東馬と、石森和男らによるもので、小樽興風会と連合して添削をうけることとした。会員は約五〇人におよぶが、中には大竹国臣(敬助、旅館山形屋主人)、河野犀川(常吉)など有力歌人も含まれていた。同会は翌四十一年一月に額賀札幌神社宮司を選者に依頼したが、この時点での規定は大略次のとおりであった。
第一 札幌興風会は小樽興風会と聯合して新派旧派の何れにも偏せず国歌の研究を以て目的とす。
第二 本会は毎月第二土曜日午後歌会を開く。
第三 本会は時々斯道の大家を聘し講演会を開く。
第四 会員は毎月三日までに本会兼題の歌什を出詠すべし。
第五 会員の歌什はすべて小杉文学博士及額賀札幌神社宮司両大人の添削を乞ひ、一は新聞紙に搭載し、一は雑誌として発刊すべし。
第六 本会は年四回会員の歌什を載せたる雑誌「興風」を発刊し会員に配布す
(第七~第九略、北タイ 明41・1・10)

 同会の性格は、規定の第一に「新派旧派」どちらにも偏せずとあっても、実際は「旧派歌壇の総力を結集した観がある」(北海道歌人会 北海道歌壇史)と評されている。同会は規定にあるように会誌『興風』を刊行し、現在に至っている。
 さかんであった旧派に対し、新派の普及はこの時期なお微々たるものであった。わずかに落合直文による浅香社の系統に属する石森和男山本露滴らが活躍し、また石川啄木が四十年九月に札幌に居住し北門新報社に勤めたが、わずか二週間で小樽に移った。この中で山本は三十九年二月頃に文芸誌『北光』を創刊したが、必ずしも短歌誌とは限定できないので、後述する。
 この間、歌集としては明治三十五年から三十八年まで道庁視学官として在札した山田邦彦が三十七年に歌集『えぞにしき』を、また河野常吉編によって、三十九年九月に『北海百人一首』が、さらに四十一年七月に山本露滴の歌集『金盃』が刊行された。これ以外で活躍した歌人としては牛島正義飯塚露声、篠原正風(並木凡平)などがあげられる。このほか、前記以外の歌人の来札としては、四十一年八月にアララギ系の民部里静が来札している。四十五年七月には九条武子が来札しているが、仏教婦人会本部長としての来札で、新聞にも短歌会開催等の記事はない。このほか四十五年五月には松葉会という和歌研究団体が設立され、毎日夜間に講義・添削を行うこととしたという(北タイ 5・16)。