二十世紀に入る前年、明治三十三年(一九〇〇)十月に、札幌在住のアメリカンボードの宣教師ジョージ・M・ローランドは、区内のプロテスタントの教役者会で、当時の道内プロテスタント教会信徒数を報告した。それによると、全国では総人口に対する信徒の割合が前述のとおり〇・一パーセント弱であるが、北海道では人口一〇〇〇人に対し二・六人(〇・二六パーセント)と数えられた。これは、聖公会・美以教会(みいきょうかい)・日本基督教会・組合教会・浸礼教会(しんれいきょうかい)(北部バプテスト派)、それに札幌独立基督教会を加えた現住陪餐会員(現員会員)を二一四七人と数え、年間の受洗者数を三三一人と数えたものである(北海教報 第三三号、北海之光 第八九号)。ローランドが道内の信徒数を掲げた理由は伝えられていないが、道内の対人口比の多さを示すとともに、今後の宣教の方向を考えるための素材を提供したものと思われる。
この年、右の五教派一教会に対応する札幌の現住陪餐会員は、五教会(浸礼教会を除く)で約五六〇人、区の対人口比では一・三パーセントであった。これにカトリックとハリストス正教会を加えると信徒数は七〇〇人以上になろう。函館・小樽など他の都市との対比ができないが、道内キリスト教界での札幌の比重の大きさを思わせる。これ以降、大正十一年(一九二二)まで、札幌区内のキリスト教信徒の対人口比は、一・八パーセントから二・五パーセントの間を終始していた。おそらく全道・全国の対人口比を大きく上回ったことと思われる。
札幌は信徒数ばかりではなく、様々な面で道内のキリスト教界の中心地になりつつあった。道内で伝道地が拡大し、いくつかの教会が設立されていくと、各教団は教区・連回・部会・中会・地方部・司教区あるいは知牧区という教団それぞれの地方組織を設け、中枢管理機構を持つようになるが、これらを函館などから漸次札幌に移転させるようになり、教団の地方拠点が札幌に集中していった。地方組織の管理を教会持ち回りにしていた教団でも、札幌の教会はおのずとその中心的存在となった。さらにこの時期発行されるようになる各教団の道内向け機関紙、例えばカトリックの『光明』、メソヂスト教会の『北海メソヂスト』、ハリストス正教会の『北海之正教』、組合教会の『北光』などは、札幌の教会が主体となって編集・頒布が行われたり、あるいは札幌の教会の機関紙であったものが、部会などの機関紙として活用された。それぞれの紙面からは、札幌の諸教会が道内の自派教会の中核として、伝道・教育・交流・情報交換の要の役割を担おうとしている様子を窺うことができる。
このようにして、各教団は宣教着手の地であった函館から、内陸の札幌に拠点を移していった。諸教派の全道的な協同行動が、札幌から起こされることも頻繁となった。奥地の都市や開拓地を目指す人びとが、札幌を中継地とすることが多くなったように、札幌の教会もまた、新しい地域での伝道の策定地、情報の発信地となった。
札幌が道内宣教の中心地となったこの時期、教会の数も増加し、当初の七教会は大正十一年までに倍増した。これは、当初の七教会の所属教団(独立教会は単立)以外にも多数の教派の進出があったからである。浸礼教会、東洋宣教会、福音ルーテル教会、救世軍、第七日安息日基督再臨教会(セブンスデー・アドベンチスト教会)などのプロテスタント諸教派と末日聖徒耶蘇基督教会(イエスきりすときょうかい)(モルモン教)がそれであり、戦前の教会はほぼここで札幌に姿をあらわした。