村社であった豊平神社は、大正十二年四月に豊平神社奉賛会を組織して「社殿の腐朽其の極に達し誠に神明に対し奉りて恐懼の至に堪へず」とのことで(豊平神社奉賛会趣意書 豊平神社七十年誌)、社殿造営の計画に着手している。しかし寄付金募集に難航し、十四年五月十八日の上棟式を経て、七月十四日に竣工し遷座祭を行うに至った。翌十五日には奉祝祭と例祭が行われている。昭和四年七月十五日の例祭から初めて神輿渡御を行うようになったが、神輿は三年の御大典記念事業として新調したものであり、市内中心部と市内豊平町、白石町の巡幸を行っていた。豊平神社の付属団体には猿賀、湯殿山、稲荷の三講があり、目的は「豊平神社ノ祭神ノ御神徳ヲ宣揚シ敬神崇祖ノ美風ヲ涵養シ、併テ神社ノ維持ヲ確立シ諸設備ノ完成ヲ計リテ尊厳ヲ発揚スル」こととされている(社寺関係書類)。
豊平神社では昭和十七年四月十五日に郷社昇格を申請し、十八年五月二十七日に認可となった。これは皇紀二六〇〇年記念事業として社務所改築などとともに計画されたものであり、七月十四日の例祭宵宮に鎮座六〇年記念、社務所改築竣工、郷社昇格奉祝の祭典を執行している(豊平神社七十年誌)。
弥彦神社は大正十一年八月二十四日の創立と同時に村社となっていたが、同社は新潟県出身者が中心となった越後国弥彦神社崇敬会をもとに創祀されていた。十二年八月十五日の例祭より御輿の市内渡御が行われるようになったが、当初は隣接の札幌招魂社と祭日が重なり大変な賑わいであったという。昭和二年五月十四日に郷社への社格昇進を申請したが、境内地六〇〇坪は中島公園内の市有地であり、神社地として移転登記されていなかった。そのために、「神社境内地ノ確定後出願相成様」との指示で実現をみなかった(社寺関係書類)。その後、昭和十一年に境内地の贈与を受け(十二年に社務所敷地一九二坪)、十三年十一月一日に郷社に昇格し(明細帳)、十一月二十日に昇格奉告祭を行っている。
鉄北地区の鎮守神となっていた諏訪神社では、村社昇格を目的に昭和八年十一月より社殿の改築、社務所の新築を行っていたが、九年四月十九日に無格社より村社に昇格し(明細帳)、六月十日に竣工したので新築遷座祭が執行されている。
各社には氏子会、崇敬会などが組織されて、社殿や境内の維持・管理、例祭の執行が行われていた。神社の経営に関しては十三年度予算の場合、諏訪神社一五四六円、弥彦神社四二一〇円、豊平神社一八八五円、札幌村神社二七三円、三吉神社一万二〇五七円となっており、社格による相違が顕著にみられているが、収入は氏子負担金と賽銭・守札・祈禱料が大部分を占めていた(社寺関係書類)。