満州事変のときとは異なり、昭和十二年(一九三七)の日中戦争(盧溝橋事件)の段階になると、キリスト教界が社会的に独自の主張を行うことは困難となってきた。盧溝橋事件のあと、カトリック東京大司教は文部省の要請を受けて、挙国一致体制への協力を信徒に訓示した。文部省はまた宗教団体や社会教化団体を招いて国民精神作興に関する合同懇談会を開催したが、日本基督教聯盟もこれを受けて「非常時局ニ関スル宣言」を発表した。札幌組合基督教会でも、盧溝橋事件の翌八月には早くも「北支」事変のため祈願慰霊の礼拝を行い、慰問袋や献金を募集した。この動きは同教会ばかりではなかった。
日中戦争後は、日本の大陸政策を批判するアメリカ・イギリスなどとの関係が深いキリスト教界へ政府の監視が強められた。また外国組織との断絶が、キリスト教界内外からも迫られた。たとえば、昭和十五年(一九四〇)六月、救世軍札幌小隊の兵士(信徒)であった村上政明が陸軍へ応召中、「信仰的反戦思想と軍務に服することの矛盾に悩み」(戦時下のキリスト教運動 1)自殺を遂げた事件があり、これが問題とされて救世軍取締りの原因の一つとなった。救世軍は、イギリスの万国本営との関係を断ち、軍隊的組織・職制をやめて、十五年八月救世団と改称、札幌小隊も札幌支部と改められた。また、イギリス国教会と組織上密接な関係がある聖公会の北海道地方部G・J・ウォルシュ監督も同年五月辞任、離道し、アイヌ民族の問題に取組んだ元宣教師ジョン・バチェラーも六十余年にわたる北海道での活動を断って、同年十二月、カナダへ向けて離札した。カトリックの札幌知牧区長(教区長)も、同年十月、W・キノルド司教が辞任、日本人の戸田帯刀に代わった。日本基督教会では、外国ミッション(伝道団体)との友好関係を断つことになったが、それを北海道中会議長小野村林蔵が、北星女学校の前校長アリス・M・モンクに伝えたのもこの年であった。
戦時下の思想統制は、教会に先んじて外国ミッションとの関係があるキリスト教主義学校に及んだ。わが国の文教政策は国家目的の達成に国民を従属させる傾向が強かったが、戦時下では戦争完遂を至上目的として特に思想統制が図られた。この時期、札幌では北星女学校・藤高等女学校のほか、新たに開校した光星商業学校があるが、いずれも文教当局の強い監視・監督の下にあった。
北星女学校は、ミッションからの経済的な自立と経営基盤の強化を課題として、財団法人化と日本人校長の就任を図ってきた。このうち日本人校長はすでに昭和九年、モンク校長が退き、北海道帝国大学教授を退官した新島善直(札幌日本基督教会員)を校長に迎え実現していた。法人化についても、十六年に財団法人北星女学校の設立を果たした。この時期、政府の方針に添う運営・教育が特に留意して進められ、十四年には「支那事変」二周年記念として、戦没者慰霊のため札幌護国神社への全校参拝が、また札幌神社への全校参拝が行われ恒例化した。ところがこの年、同校を会場とした防火演習に際し、連絡のミスから職員・生徒が全面的に参加せず傍観したため、新島校長以下が防空当局から厳しい叱責を受けるという「赤い球事件」が起こり、新島校長の辞任を早めた。対米英開戦直前の昭和十六年九月、モンクらアメリカ人教師は同校理事会の帰国勧告に従って帰国した。同年十一月、理事会は学則を改訂し、第一条のうち「基督教主義ニ基キテ」を「基督教ノ真精神ニ依リ」と改め、「日本婦道ヲ体得」することを加え、聖書科と英文専攻科の両コースを廃止した。
カトリックの藤高等女学校は昭和十四年に文部省の厳しい視察を受けた。これは軍人を加えた文部省の視察官ら約一〇人によるもので、宗教、教育内容、国家観についての質問で、校長のクサベラ・レーメと修道女牧野キクを二時間にわたって問い詰めた。「天皇陛下とキリストはどちらが偉いか」という質問がその中心をなしていたと伝えられている。クサベラ校長は日本の同盟国であるドイツ人であったが、十六年校長の邦人化によって退任、牧野キクが校長となった。職員たちは卒業式を目前に、すでに刷り上がった卒業証書から前校長の名を消した。この頃には修道女たちの服装もモンペ姿の標準服にかわっていた。
光星商業学校の場合は、当初は普通中学を設立する計画で、ドイツの「ブライエルハイデの教職修道会」が昭和六年から準備にあたっていた。しかし、当初の設立申請は認可されず、八年、財団法人光星商業学校として認可され、ようやく翌九年に開校したが、教職修道者たちは十四年、活動を断念して帰国した。十七年から経営は日本人が多い教職修道会「マリア会」に引き継がれた。